野宿再び -something about me vol.2-
GWも後半にさしかかったその日、玄関の扉を開けると、そこにはもう夏の香りがあった。
思いのほか強い日差しに一瞬目をしかめる。
ついこないだまでは桜が咲いていたというのに、季節の移り変わりは人間が思っている以上に早い。
「この服では少々厚手だろうか?」
そう思いながらも徒歩で駅に向かった。
中型のリュックが程よい重さで背中を圧迫する。
両肩に食い込むストラップの感触が懐かしい。
「俺の装備も随分と軽くなったもんだ」
昔は、十代の俺は、何かと無駄な荷物が多かった。
小遣いを割いて買った愛着のある道具たちを置いていくのも可愛そうとあれこれ詰め込んだり、本を何冊も放り込んだり、一眼レフ一式を用意したり、手作りの食事に凝っていたのであれこれ具材や調味料を持って行ったりした。
そんな道具たちも年月と共に淘汰され、今では必要最低限のものしかリュックに詰めないようになった。
一人の時は食事も一から作るようなことはもうしない。
今では缶詰めやレトルト中心で、せいぜい米を炊くぐらいだ。
あまり作業を増やさず、野宿では可能な限りのんびりしたいと思うようになった。
生卵まで用意し、一人山奥でスキヤキを作っていた俺は一体何だったのだろうか?
今思えば、「こだわる」という意味を勘違いしていたようにも思える。
俺も若かったということか。
あるいは、それも必要であった通過儀式か。
もう一度あの頃に戻りたい気がしないでもないが、どうせまた同じことをするだろう。
本を愛し、食を愛し、そしてM女性を愛する...
もっとも、食を愛すると偉そうに言ったところで、俺の場合専らB級グルメであり、フランス料理店に行った回数などいまだ両手で足る。
本にしてもそうだ。
本物の読書の虫というのは、俺の比ではない。
ならば誇れるのはM女性を愛するということだけか。
けれど、これに比べれば読書も食も取るに足らないように思える。
つくずく俺は幸せ者だ。
駅に着いた頃には額に汗がにじんだ。
上着を脱いでリュックにしまう。
しかし、今はお邪魔なこの上着も夜になれば重宝するだろう。
山の夜は真夏でも冷える。
缶コーヒーを買い、煙草を吸いながら電車を待った。
やはり、夏の香りがした。
電車を乗り継ぎ、亀岡駅に着いたのはちょうど10時だった。
ここから徒歩で保津峡駅に向かうのだ。
駅から駅に向かうと書けば、あまり自然な感じがしないかもしれないが、JR保津峡駅というのはちょっと特殊で、峡谷の中にポツンと存在する駅なのだ。
俺としては景観にそぐわないこんな駅など必要ないと思うのだが、とにかく場違いにそこに存在するのは事実だ。
峠道に入る前に駅前のスーパーで食料を買い込んだ。
さんま蒲焼き、ほていの焼き鳥、チキンラーメン、冷凍枝豆、サラミ、牛舌スモーク、サーモン、ナッツ、チョコレート、その他諸々...
そしてボンカレー。
今時ボンカレーよりも美味しいレトルトはいくらでもあるが、俺にとって野宿のカレーとはボンカレーでなければならない。
お袋の味があるように、野宿の味というものがあり、俺にとってそれははんごう飯であり、ボンカレーであり、さんま蒲焼きの味である。
スーパーなどありそうもない山間の集落には、雑貨屋兼食料品屋兼酒屋というのが一軒は必ずあるものだ。
軒先にはいまだ専売公社の看板がぶら下がり、「お酒あります」の手書き文字が旅愁をそそる、そう、あの店だ。
男なら、誰だって一度はツーリングでお世話になっているはずだ。
そんな店にはどこだって、食料品棚の一番下に、2,3年前からそこに鎮座しておられるのではないかというボンカレーとさんま蒲焼きの缶詰めがひっそりと隠れていたりする。
ホコリをかぶっていようが、缶の淵が錆びていようが一向に構わない。
ましてや、それらをくるりとひっくり返して賞味期限を確認するなどあるまじき行為といえる。
ただそこにあるだけでも感謝しなければならない。
腹を減らした夕暮れの山村で、食料にありつける喜びとはそういうことだ。
こういう店では例によって大声で「すいませーん」と叫ばなければならない。
それでもすぐに出てきてくれればラッキーで、中には待てど暮らせど全く反応のない店もある。
そういう場合はちょっと多めに100円玉を置いていくことになる。
なぜ多めかと言うと、中には定価に若干の輸送費等を加算している店があるからだ。
要するに山小屋価格である。
俺はこういう場合、ボンカレーとさんま蒲焼きは昔から一律300円としている。
ちょっと割り高だが、一旦山中に入ればお金さえもただの荷物なので損した気分にはならない。
随分話が逸れた。
で、食料を調達した俺はかな重みの増したリュックを肩に、JR保津峡駅に向かってえっちらおっちら歩き始めた。
駅から歩くこと約30分、峠道に入ると木々に太陽が阻まれ体感温度が2,3度下がる。
夏の暑い盛りに来るには絶好の場所なので、友人たちと一緒によくキャンプにも来る。
俺にとっては保津峡はまさに軽井沢的存在だ。
今夏にも何度かお世話になるだろう。
横を流れる清流の音が心地よい。
時々、場違いな音楽を響かせた四駆が通り過ぎる。
狭い道なので、そのたびに俺は道を外れて待機しなければならない。
こんな素敵な峠道を清流の音も楽しまず足早に通り過ぎて行くなど、何ともったいないことか...
加速していく車のテールにそう言ってやったが、そんなある時、驚いたことに停車した車のウインドーが下りて「お乗りになりますか?」と声を掛けられた。
どでかいパジェロの車内を見れば大学生風の女性ばかりが5人乗っていた。
想像するに、この中の誰かの買ったばかりの新車で、GWに皆をドライブに誘ったのだろう。
この日、私はバンダナをワイルドに巻いており、その後ろ姿が男らしくて、「ねえねえ、ちょっと声掛けてみない!?」などと、車内で盛り上がったに違いない。
「ありがとう、じゃあ保津峡駅まで...」と車内に乗り込めばちょっと展開も変わったのだろうが、断った。
このまま清流の音を聞きながら歩きたかったし、何より俺はサイトを通じて知り合ったM女性たちの存在で十分満足しているので、他でそれ以上求めようとは思わない。
そうすることで自然に付き合いのバランスがとれているのだろう。
そんなわけで、パジェロのガラガラ唸るエンジン音が遠ざかって行き、また静寂が戻った。
サラサラという透明な音を耳に再び歩き始める。
ところどころで釣り糸を垂れている人がいる。
ここではアマゴが釣れるのだ。
俺も何度かチャレンジしたことがあるが、稚魚が一匹釣れた、というか引っ掛かっただけだ。
今日は釣り道具を装備していないので、横目で見ながら通り過ぎるしかない。
途中、水尾という集落がある。
ここは避暑とユズの町として知られていて、旅館などもある。
ユズ風呂と鍋が楽しめるそうで、今は病床の母も度々訪れたと言っていた。
惜しむらくは、ここに3,4件ある旅館は泊まりができないのだ。
山々を見渡せる旅館の室内で緊縛すればさぞかし麻も映えるだろうなと、のどかな山村でちょっと淫美な妄想にふけったりした。
JR保津峡駅に着いたのは午後3時を過ぎてからだ。
GWということで駅には多少活気がある。
ここでこれだけ人を見たのは初めてのことだ。
売店で500mmの缶ビールを5本買うといっきにリュックが重くのしかかる。
さて、ここから駅のホーム端のフェンスをよじ登って秘密のルートに行きたいのだが、いつもは無人のこの駅もさすがにGWともなると駅員が駐在している。
仕方がないので200円程のキップを購入すると、改札を通りホームの端に向かった。
そこには家族連れがいたが電車が来るのまで待つのももどかしいので、俺は気にせずフェンスをよじ登った。
フェンスの頂上で向きを変えると、親子揃って呆れたように俺を見上げている。
「無茶しよんな~」そんな声が聞こえてきそうな表情だ。
「無茶をするのが男なんだよ」
内心そう答えると、駅員が来ないうち忍者のごとく山中に姿を消した。
ほどなくしてトロッコ列車の通る線路上に降り立った。
こんなところによく線路を敷いたなと、崖下を流れる保津川を見下し感心する。
時折、保津川下りの船が急流を滑って行くのが見える。
目ざとく私の姿を見つけた観光客が手を振ってくるので、私も応えた。
ちょっと立ち止まって辺りを眺めれば、山々の緑が新鮮で眼にまぶしいくらいだ。
人間、こういう景色を年に一度は見たいものである。
このルートには難関が二ヶ所ある。
一つはトンネル、もう一つは橋だ。
いづれも、その途中で列車に遭遇すると悲惨なことになる。
GWだからトロッコ列車も増発しているにちがいない。
俺はトンネルの入り口に着くと、そこで列車を待った。
案の定、それは5分も経たないうちにやって来た。
隠れたつもりだったが、私の姿を認めた機関士が狂ったように警笛を鳴らす。
ピーーッ!!といういかにもトロッコ列車らしい甲高い笛の音が峡谷にこだました。
列車はそのまま停車して私を注意しに機関士が降りてくるのではないかと思う程に減速する。
「やばいな、線路脇を歩いているのだから何かの法律に引っ掛かるのだろうな。これって列車運行妨害か?捕まったら罰金いくらだろうか?」
そんなことがちょっと頭によぎったが、列車はそのままのろのろとトンネルに入って行った。
「何でこんなところに人がいるの!!」という顔で客たちが窓から頭を付き出し私を見る。
「ガンバレー」と熱烈な声援を贈ってくる中年女性たちがいたので手を上げて「オウッ!!」と答えたら、車内で何やら盛り上がっている。
しかし、何を頑張れというのか?
列車からお菓子の箱がニ,三飛んできたので、遠慮なく頂戴した。
列車が通り過ぎるのを待ってから、私はマグライトを手に後を追った。
中の空気はひえ冷えとして気持ちがいい。
暑い夏の盛り、枕の下に手を突っ込むのは冷たくて気持がいいな...
トンネルを駈けながら、何故だかそんなことを思い出した。
そうして、無事第一の難所を抜けたが、ほどなくして橋がある。
ここから落ちれば50m程落下してあの世行きは間違いない。
映画スタンドバイミーのようなシーンはまっぴら御免なので、橋の手前でまた列車をやり過ごした。
身を隠せればいいのだが、右は峡谷、左は崖なのだ。
列車がやって来ると、再び狂ったように警笛を鳴らされた。
また一年来ないから今日のところは勘弁してくれ。
列車が橋を抜けたので俺も後に続く。
枕木はスケスケなので、横の金網の上を歩くしかない。
一歩足を踏み出すたびに朽ちた部分が抜け落ちはしないかと汗が吹き出し、心臓がバクつく。
金網の隙間からは保津川の流れがよく見えた。
あまり慎重に歩んでいると次の列車が来てしまうので、宙に浮いたような体を急がせた。
頑張れ、俺!!
もう少しだ、もう少し!!
橋を過ぎればそこにはパラダイスへの入り口があるのだ。
この素敵なパラダイスは俺が見つけたのではなく、その昔、釣り好きの友人に教えてもらったのだ。
そもそも、偶然に発見するような場所ではない。
その友人もまた、誰かに教えてもらったのだと言う。
最初に見つけた人は凄いな。
そこは魚たちで溢れ、澄んだ清流はうかつに足を突っ込むと水深を誤り、そのままザブンと水中に体を持っていかれる。
蝶が多いのも特徴で、ここは中南米かと錯覚することもあれば、けったいな昆虫にごそごそ顔を這われては昼寝の邪魔をされたりする、そんな場所だ。
今では何人がこの場所を知っているのだろうか?
こうして書いてしまったが、これだけではまず分らないだろう。
とにかく、俺は二つの難所をクリアして無事パラダイスの入り口に着いた。
ここからはいわゆる沢登りだが、命を危険に晒すようなことはもうない。
それでも慎重に歩を進めると、時折、清流の中の黒い影が岩場の下にもぐり込む。
アマゴかヤマメ、あるいはイワナだろう。
釣り上げて焚き火であぶれば最高の肴になるが、今日は無理だ。
今回、釣り道具を諦めた代わりに文庫本2冊とスキットルに詰め替えたケンタッキー・バーボンを持ってきた。
こんな場所で酒の切れた野宿など、想像しただけでも恐ろしい。
野宿の一番の難敵は害虫でも野生動物でもなく、怪奇現象だ。
その恐怖は単独野宿を行った者にしかわからないだろう。
アルコールはそんな夜の強い味方にもなってくれる。
時には腰まで流れにつかりながら、時には苔むした岩場に足を滑らせながら、30分程登っていつもの宿泊ポイントにたどり着いた。
そこはちょっとばかり開けた場所で、かつ、地面がフラットなのだ。
これだと、夜眠り易い。
時計を見れば既に5時を過ぎており、人里離れた山中には夜の気配がぼちぼち忍び寄っている。
辺りが暗くなる前に、俺にはやらなければならない仕事がたくさんある。
先ずは流れのゆるい場所を見つけては石を積み、流れを堰止める。
さて、これは何のためか?
そう、それは天然の冷蔵庫で缶ビールを放り込んでおく。
ちゃんと石を積んでおかないと缶ビールが流されて泣くに泣けない状況になるので、石積みの作業は慎重に行う。
そこに缶ビールを丁寧に並べるとまだ陽の光は残っていたが、コールマンのランタンを点けてツマミを最小に絞っておいた。
次は薪集めだ。
野宿に出て焚き火を楽しまなというのは、夏の居酒屋で生ビールを頼まないに等しい。
朽木を集めては頃合のいい長さに手刀でブチ折った。
それが終わると焚き火用の穴堀りだ。
帰り際には穴を埋めて余った薪やら炭を再び自然に戻す。
ゴミも埋めるが自然に戻らないものは絶対に埋めない。
これは焚き火人の最低限のマナーである。
これが済むとやっとテントの設営だ。
俺が愛用しているのは石井スポーツのゴアライトで、五分もあればねぐらが出来上がる。
テントに潜り込む頃にはかなり酔いも回っているだろうから、シェラフやマットなどもあらかじめセットしておく。
夜中に喉も乾くので、水筒に清流を汲んで枕元に置いた。
食材を地面に全てブチまけると、ささやかな宴の肴を選んだ。
これでようやく一段落だが、まだ陽が少し残っているので焚き火には早い。
清流の冷蔵庫から1本取ると、岩場に腰かけて栓を抜いた。
よく冷えている。
喉に流し込むと実にうまい、うまい、うま過ぎる!!
と、まあこれでその時の俺の感動が少しは伝わるだろうか?
貴重な缶ビールだが、惜しげもなく二口で飲み干した。
ちょっと寝転んでみる。
心地よい疲労感だ。
名も知らぬ鳥の鳴き声が近くで聞こえる。
「やあ、今夜は一緒だな」
そして、三曲ほど一人カラオケを楽しんだ。
歌ったのは「つなみ」、「Let it be」そして「My heart will go on」だ。
ちなみに俺は歌が下手で、そのせいなのかどうなのか鳥もどこかに飛び去ってしまった。
さて、ぼちぼち始めるか。
一人ぼっちだが最高に贅沢な宴を。
薪にホワイトガスを振りかけて擦ったマッチを放り込めば一発着火だ。
一瞬、2mほどバッと炎が上がり、辺りを強烈に照らした。
大自然の中、清流のせせらぎを聞きながら酒をチビチビ飲み、焚き火の炎を眺めてはあれこれ想いを巡らせるのが好きだ。
その夜、俺はM女性の方々から送られてきたメールを可能な限り頭の中で一通ずつ読み返した。
時々、思い出したようにサラミをかじってはバーボンで喉を焼く。
そうして焼けた喉に、よく冷えたビールを流し込む...いわゆるチェイサーという飲み方である。
心地良い酔いも手伝ってか、気が付けばそれはこれから受け取るであろう未来のメールの内容にいつしか移り変わり、暖かく燃える焚き火の側、私の夢想は星々の輝く満天の空をどこまでも駈けて行った。
shadow
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