SM 110.com 携帯版トップページへ

SM 110.com パソコン版トップページへ


26日

柚子皮の消費メニューを募ったが決定打に至るものはなく、よって手当たり次第に柚子皮を使っているのだが、これがなかなか新鮮な発見が多い。卵焼き、和風お好み焼きや焼きそばのトッピング、玉子かけご飯、しらすと柚子皮とおかかの混ぜご飯、おにぎり、和風麻婆豆腐、塩ダレやきとり、各種漬け物、各種和風サラダ、うどん等々...その他挙げればキリがないが、とにかくそれが薄味の料理であれば何でも合う。こうなれば柚子皮も立派な調味料である。中でも一番美味しいと思ったのが和風パスタだ。具材は何でもいいのだが、今の時期であれば鯖と白菜の組み合わせが好きだ。盛り付けたら軽く柚子を絞り、更に極細に切った柚子皮を散らす。日本酒で食べたくなるパスタの完成である。重宝した柚も残り4個となった。こうして季節の恵みを庭先から舌へとダイレクトに感じることができるのは本当にありがたい。

23日

梅と共に、親父が間借りしている畑ではブロッコリーが春の訪れを告げ始めた。まだ2月だが、早くも我が家はブロッコリー三昧。茹でてマヨネーズがシンプルで美味しいが、さすがにそう毎日食えるものではない。定番はブロッコリー/ゆで卵/生玉ねぎのサラダ。味付けの基本はマヨネーズ、黒胡椒、ニンニク、マスタード。気分によってカレー粉やハチミツを入れたりもする。甘めの味付けで卵を半熟にすればデリ風だ。マヨネーズに飽きたらベーコンと炒めてニンニク味の中華風やパスタに。俺はどちらかと言えば茎の方が好きだな。親父がせっかく作った畑食材の有効活用という観点から、つまりはもったいないの精神から料理のレパートリーもずいぶん増えたものだ。そんじょそこいらの女性であれば俺には勝てないだろう。最も、プロでもなし、料理の腕など大した自慢にもならぬ。とはいえ、明日も食材の有効利用だ。何せ、大した広さがあるわけでもないのに二人では食べきれない程に収穫できる。自然の恵みの太っ腹さにはただただ感嘆するばかりだ。春の訪れがもう一つ。週末、地元の駅で関取を見かけた。春場所も近いな。

19日

午前十時の映画祭で「太陽がいっぱい」を見てきた。これぞ名作中の名作。俺がこの映画を始めて見たのは小学生のときだが、あのラストシーンは多感な少年にはあまりに衝撃的過ぎた。大人になって見ても、改めて凄いラストだと思う。この雑記で過去何度も書いたような気がするか、夜9時のTVロードショウでは毎度毎度同じような映画ばかり再放送してないで、昔の名作も放送してくれたらいいのにと思う。俺が小学生の頃には太陽がいっぱいシェーン風と共に去りぬ等々名作と言われた作品からB級映画に至るまでいくらでも放送されていたものだ。それとも何か、太陽がいっぱいのラストは放送規定にひっかかるのか?椿三十朗の最後の居合いもダメらしいからな。まあ、昔は紅白歌合戦の裏番組としてエマニエル夫人の1〜3が堂々放送されていたくらいだから、放送規定も今と比べてずいぶん穏やかだったのだろう。どうしてもエマニエル夫人を見たかった小学生の俺は、否、俺たちは友達と京都清水寺へ初詣に行くという口実で大晦日に家を出、自室にテレビのある友達の部屋に集まって興奮しながらエマニエル夫人を見たものだ。ああ、懐かしき俺の青春前夜。それに比べて最近のテレビ映画はつまらんな。せいぜい地上波初放送で多少いくつかに興味が引かれるくらいのものだ。俺的にB級映画の傑作「ドクター・モローの島」でもまた放送してくれないものか。マッドサイエンティストが海底に眠る財宝を我がものにするため、人間をエラ呼吸できるように改造する人体実験のシーンがあるのだが、小学生の俺にトラウマを残すに十分なインパクトがあった。子供たちが島の大人を全員殺していくザ・チャイルドも忘れがたい。特に殺した裸の女のオッパイを揉むシーンが未だ脳裏に焼き付いているが、よくまあ、こんな背筋が寒くなる映画を普通に放送していたものだ。

16日

テレビ東京で放送された「永遠の0」はとても素晴らしかった。近年稀に見ぬ傑作ドラマであったと言える。それだけ原作が良いということだろう。木曜第一夜の放送でしょぼいセットでの撮影なら映画のイメージを壊さぬためにも即見るのを止めておこうと思っていたのだが、結局、引き込まれるように全夜見た。開局50周年というだけあって相当気合い入れたな、テレビ東京。映画版に比べても遜色のないSFX(イマドキはVFXと言うべきなのか?)だったし、セットも十分合格点だ。映画版に比べて相当長い本編なのでいささか間延びしたシーンもあったが、それでも映画版ではカットしたシーンやら台詞を楽しむことができたので良しとしよう。最も、俺は原作を読んだわけではないが。しかし、百田さん、こんな素晴らしい小説を書いたのに「殉愛」で完全にケチが付いてしまったな。いずれその実力で炎上も治まるのだろうが、今しばらくはタフな時間になるだろう。あるいは、作品的には売れたから良しなのか?

12日

旬の内にと相生へ牡蛎を食べに行って来た。岡山の手前と言っていいくらいの場所だが、播州赤穂行きの新快速に乗れば乗り換えなしの一本で行ける。駅で相生カキMAPなるものを頂戴し、適当に散策。何軒か店の面構えをチェックして一番気になったお好み焼き屋に突入。地元感バリバリの普通の感覚ならば最も入りにくい店だ。昔から俺はこの手の店にこそ惹かれる。観光客を当て込んだ面構えと値段と盛り付けばかりが立派な店は避けたい。カウンターの鉄板前に座り、先ずは殻付きの焼き牡蛎を注文。メニューにないものを頼んだので値段は不明だが、とにかく美味しかった。相生の牡蛎は焼いても身が縮まないのが自慢だそうだ。確かに出来上がりもでかい。味付けなしの焼き牡蛎を日本酒と共に堪能した。次は牡蛎の天ぷら。フライではなく天ぷらは初めてたが、これまた最低限の味付けで実に美味しい。三品目は通称カキオコ。要するに牡蛎がゴロゴロと入ったお好み焼きのこと。これまた美味しいが、せっかくの美味しい牡蛎に過度な味付けはもったいなくも感じた。最後はホルモンうどん。これは津山のご当地グルメだが、岡山にほど近い相生でも地域に根付いているようだ。モルモンうどんには牡蛎を追加してもらった。初めて食べるそれは、これまたとても美味しい。たまらず酒をお代わり。母の田舎ということもあって津山には過去何度も行っているが、どうしてこんな美味しいものを食べさせてくれなかったのだろう?かなり大振りにカットされたのテッチャン(大腸)の脂がとても甘くて、こってりとした焼き肉のタレ風の味付けにもよく合っている。結局、何件かハシゴして回るつもりが、この店一軒で大満足となった。これで会計は三千円ちょい。あまりに安くてびっくりした。駅前にあった面構えが洒落た店ならこうはいくまい。食後は町を散策。何もなく、人もいない。シャッター通りと言っていい商店街では一軒昼間からオープンしている焼き肉屋があった。先ほどのテッチャンから察するに、ここのホルモンも旨いに違いない。しかしながら、俺はわざわざ相生まで牡蛎を食べに来たのであって、ホルモンの旨いのなら大阪にもある。ということで、後ろ髪を引かれつつもパス。駅の売店で相生の定番土産と書いてあったイカフライを購入後、各駅停車で胃を落ち着けつつのんびり読書しながら帰る。途中、神戸で降りて久しぶりの台湾料理「丸玉食堂」へ。ここの豚足はかれこれ30年以上食べ続けている。この店は俺が台湾に通うようになった好奇心の原点とも言える店だ。「いつか台湾で本場の豚足を...」と思ったものだが、少なくとも台北でこの店にあるような豚足煮込みに出会ったことがない。まあ、俺は好んで屋台ばかり行くからかもしれないが。この日以来、テレビニュースで旬の旨そうな牡蛎を見せられても羨ましいと思わなくなった。わざわざ相生まで行って煩悩を一つ消した甲斐があるというものだ。

9日

まだまだ朝の冷え込みは厳しいが、俺が毎朝気功や瞑想をしている場所の横にある梅の木の蕾が膨らみ始めているのを見付けた。早くも花を咲かせているものさえある。小さい春見つけたといったところか。夜が白み始める時刻もめっきり早くなった。先週までは職場に着いてもまだまだ辺りは暗かったが、週が空けてみれば職場に着いた頃にはめっきり白んだ状態となった。立春とは単なる暦上だけのものではない。毎日自然と接していると、一年で最も寒い二月上旬であってもひしひしと春の訪れを感じることができる。俺がこの職場の素晴らしい桜を楽しめるのもおそらくあと1、2回。今年もせいぜい満喫するとしよう。

5日

デパ地下の惣菜は確かに美味しいとは思うが、それはただ単に美味しい止まりであって、決して心まで温まることはない。田舎料理の惣菜を購入したところでそれは同じ事。何故そうなるのか?それは調理した者の「気」が料理に宿るからだ。熾烈な商売の場であるデパ地下で調理人に心まで求めるのは難しいし、そもそも、調理人と呼べるかどうかさえも怪しい。アルバイト店員がマニュアルに沿って調理しているだけというのが大方ではないのか。これが居酒屋や食堂などになると、心が温まる料理を出す店もなくはない。「なくはない」と表現するのは俺がそういう「気」にとても敏感だからであって、うとければうといでそれなりに値段分の料理は楽しめるだろうが、敏感であれば良くも悪くも値段通りというわけにはいかない場合が多い。どちらが凄いとか偉いとかそういう話ではないが、より広く楽しめるという意味においては多少鈍な方が特だろう。反面、敏感であればこそ鈍では決して感じ得ない喜びを一見全く普通の一皿に見い出すこともある。これは化学調味料がダメだとか、旬の無農薬が良いとか、そういう話でもない。あくまで調理人の気のことを言っている。いくら最上の素材であろうが適当に作られたそれは美味しいが心に響かない。デパ地下のそれである。味覚を越えて心にまで訴えるには調理人の気が不可欠である。そういう意味で寿司屋などは面白い場所だと言える。握る者と食べる者が直接対峙した空間において出された料理を即座に口に入れる。だからこそ気が出やすいし、わかりやすい。心に響く寿司とそうでない寿司を分けるのは、握った職人の気格とそのときの心情であろう。それらが気となって寿司に乗る。そういう意味で寿司屋は実に面白いし、好んで行く。店の格式など何の指標にもならない。気格が高い寿司職人のそれは何カンでも食べたくなる。滅多にないが、明らかに邪気が入った寿司など出てきた場合、一カン食べただけで席を立つ。

2日

先日、ケンミンショウなる番組の大阪特集が目に留まった。大阪の常識が必ずしも全国の常識でないことには改めて驚かされる。俺が東京へ行って最も奇異に感じるのは電車内の静かさだ。異、東京が静かと言うよりも、大阪の車内がかしましいと言った方がいいのだろう。二人以上で乗った場合、大阪人にとって車内とは会話スペースである。何も会話せずにむっつり座っているのは離婚直前の熟年夫婦くらいのもので、若い女性の深刻な恋愛話が丸聞こえなどよくあること。みな、駅に着けば他人とばかりに結構ディープな話も開けっぴろげにする。さすがに女性の下ネタはないが、とにかく、まあ、賑やかだ。要するに、大阪人にとっては車内も茶の間も対した違いはない。俺はそれが当たり前に育ったので、東京の車内は文字通りのパブリックスペースで、そちらの方が正しいのかもしれないが奇怪は奇怪だ。東京のみんな、大阪へ観光に来たらバスやタクシーではなく電車に乗ってみればいい。それだけでも大阪気分に浸れるだろう。