29日
今回、御嶽山の噴火ではたくさんの人々が気の毒なことになってしまったが、一体彼、彼女たちの死についてどのように解釈すれば良いのか。御嶽山が単なる山々の一つでないことは周知の事実であり、特に神道に熱心な人々の多く集まる神聖な場所でもある。よって、御嶽山に登るというのは単なる登山ではなく、礼拝登山という意味合いが相当に強い。犠牲者の中には俺のように日々の祝詞を欠かさぬ人も少なからずいたはず。そんな人々が何故あのような最期を遂げなければならなかったのか。俺なりに思うところとしては、一般的ではない最期ではあるけれども、彼らの死は交通事故の類と何ら変わりがないということ、つまり、決して特異な死ではないということ。神の怒りだとか何とか言う人も出そうだが、そんな考えは全くのナンセンスであり、単なる噴火に過ぎない。そういう科学的な条件が整ったから噴いた、それだけのことだ。そこに何か特別な意味を見い出す必要などないのである。犠牲者の方々には心からお悔やみ申し上げる。
25日
道路の真ん中に豪快に転がっている蝉の死骸。やがて車に轢かれ、自転車に轢かれ、靴裏で踏まれ、ペシャンコになっていつしか消えてゆく。蝉ほど豪快な死に様を晒す生き物を俺は他に知らない。同情すべきなのだろうか?否、とんでもない。地上にいられる二週間、少なくとも彼らは一つの生命として俺たちよりもよほど存分に生きている。あの騒がしい羽音は命そのものの音だ。最期、地面に落ちたそれは死骸というよりも燃えカスといった方がよい。だから、そう思うようになってからは休日の朝っぱらから庭の木でワシャワシャ鳴かれて叩き起こされても腹を立てぬようになった。反面、子供たちの虫取り網に掛かって絶叫とも言える羽音を聞くと気の毒に思える。我が家の猫の額ほどの庭には来年の奴らがひっそりと眠っているのだろうな。
18日
最近、毎週金曜日の夜、外で3時間程文章を入力してから鳥貴族で一杯、という習慣が定着しつつある。というのも、以前までは家でやるべきことをやっていたのだが、皆さんもご存じの通り家にいてはあれこれ作業を中断しかねない誘惑が多く、さらには金曜ということで心も弛みがち、一週頑張った褒美としてついつい早めに晩酌を始めたくもなる。よって、特に金曜日の夜は時間を有効に使えていない自覚がずっと以前からあった。その気持ちに更に追い討ちを掛けたのがkindleの登場だ。この社会的変化により、誰でもが極めて簡単に自分の書籍を電子出版できるようになった。となれば、それに興味があるのなら、執筆に当てる時間をより多く持ちたいと思うのが人情だ。よって、俺は毎週金曜夜を執筆の日とした。電車での執筆が俺のお気に入りだ。何より、書くか、疲れたら読書又は寝る、の三択しかないのが良い。これが家ならそうはいかない。何よりテレビは一番の天敵である。これが外ならほぼ三時間くらい打ちっ放し、ということもある。その後地元の駅前の鳥貴族でやる一杯の美味いことこの上ない。ちなみに、何を執筆しているかといえば、映画化や漫画化を意識したライトノベルだ。単なる趣味に終わる可能性もあるが、当たればダンジョンの一つや二つ一気に建つだろうという目論見もある。
11日
しこたま飲んで酔っぱらい、真夜中にトイレに起きるとたいてい喉はカラカラである。そんなとき、冷蔵庫に冷えているスイカの美味いことこの上ない。けれども、そう都合良くいつもスイカが冷えているわけでもなく、この季節、俺はいつでも真夜中のスイカの代わりになるように不二家ネクターピーチを冷やしてある。どうも酔いで起こる喉の乾きに対して体は果汁を欲するようだ。ネクターを消費したらまた翌日に一本補充しておく。4、5本まとめて冷やしておけば翌日の手間も省けるのだが、我が家の冷蔵庫はそう巨大でもないので、いつ飲むかわからないネクターに割り当てられるスペースはせいぜい一本分だ。けれども、結局親父に飲まれて肝心な時にないというのはよくあるパターン。
8日
料理のみだが事前にあれこれ言葉を勉強していったのが今回特に生きた。これにより、少なくとも食べたいと思う料理がちゃんと食べられるようになった。庶民的な大衆食堂などはメニューなどないものの、店の奥の壁に料理名がずらっと書かれていれば後は何とかなる。俺のやり方はこうだ。先ずは店先の料理一覧で食べたいものがあるかどうかチェックする。台湾の小食堂は店先が調理スペースになっている場合が多いので、食べたいものがあれば「ニーハオ」と挨拶して空いている席に座る。この時点で何か話しかけてくることもあるが、全く理解できないので笑顔だけ返す。次に、テーブルの上に注文用のペンとメモがあればそこに食べたい品を書いて渡す。なければリュックの中から持参したものに書く。それを入り口まで持っていけばOKだ。最初の一品が運ばれてきた時点で全ての代金を支払う。めちゃくちゃ入りにくいような店もこれで全て何とかなった。屋台も指差しか書いて渡せば良い。食堂ではなくレストランと呼ばれるような店に入れば注文の苦労もないだろうが、俺の場合、それでは面白くない。俺はそんな上品な料理が食べたいのではなく、台湾の庶民が日々食べ親しんでいる料理こそ食べたい。そういう意味においては完全に観光地化している士林夜市などはぼちぼち俺の興味の対象から外れつつある。
今回は観光客があまり行かないとされる地域密着系の夜市もいくつか巡ってみたが、中でも俺がいいなと思ったのは景美夜市だ。何よりアクセスがいいので次回また是非行きたい。旧日本軍の滑走路跡が夜市になったという南機場夜市などはガイドブックによれば最寄り駅から徒歩10分とあったので興味がてら行ってみたが、迷ったわけでもないのに徒歩40分はあった。その分非観光地的な雰囲気は良いのだが、いかんせん遠い。その点、景美夜市はローカルな雰囲気とアクセスの良さの両方を兼ね備えている素敵な夜市だ。
4日
今回試しにホテルの予約を取るのにエクスペディアというサイトのサービスを初めて利用してみた。「これでほんまにチェックインできるんか?」と思うほどにあっけなく希望の部屋が取れたのでいささかの不安もあったのだが、特に何の問題もなくあっさりチェックインできた。便利やな。来年もこれにしようと思う。
早朝の店先に並ぶ豚まん。たまらず手が伸びそうになったが、朝一番からこれを食べてしまっては腹持ちがとてもいいので昼飯及び晩飯の楽しみが減る、ということで我慢した。
今回の旅の最大の発見は○味(ルーウェイ)の美味しさを知ったこと。ガイドブックなどではセルフ式煮込みと訳されている一品だが、これの旨いの何の。30種類以上はある様々な具材を自由に選び、それを店でカットしてもらった上で特製煮込み汁で調理してもらう。煮上がったら穴あきのスコップのような鍋に移して薬味やら調味料、煮汁を加えて出来上がり。俺が利用した屋台は自分でカゴに具材を選んで入れるシステムで、言葉のわからない旅行者にも注文しやすい。適当に放り込んでみたが、煮込まれてトロトロになった豚の皮がたまらなく美味しい。俺はその他台湾ソーセージやら大腸、小腸、臭豆腐、麺等を放り込んだ。味はと言えば「スパイシー?」と訊かれて「イエス」と答えたせいもあろうが、五香粉、醤油味、ソース味、カレー味が微妙に入り交じった感じで少し舌にピリッとくる。日本的と言えば日本的なのだが、そうでないと言えばそうでない。まあ、美味しいからそんなことはどうでもいい。料金は約500円だったが、2〜3人前くらいの量があり、俺はビニール袋に入れられたそれを公園でビールと共に食い終わるまで小一時間かかった。結局この屋台には2度通ってしまい、次回も必ず食べたい一品。店によっては薬膳味、激辛味、新味、元味などいろいろあるようだが、発音がわからず指差しで注文しても隣のものが来るというのは台湾では十分にあり得る。
1日
魚丸湯と玉子のせ魯肉飯。魚丸湯とは魚のつみれ団子に豚肉の餡が入ったスープ。ただのつみれ団子なら日本でもお馴染みだが、肉入りはない。あっさりとした味わいの中の肉餡が奥深さを醸し出しており、また、店ごとの肉餡の味付けも微妙に違うので、あちこちで積極的に注文した一品だ。大衆食堂ではこれが一杯150円程度。魯肉飯や乾麺の共にちょうど良い。
台湾の夜市には絶対に欠かせない臭豆腐。夜市では近隣の人々が食事をするために大勢集まってくるが、臭豆腐はおかずというよりもおやつ的感覚の食べ物。臭豆腐及び五香粉の匂いがなければ夜市とは言えないくらい、夜市を歩けばあちこちから独特の香りが漂ってくる。臭豆腐といえば日本では何やら罰ゲームに食べさせられるようなとても臭い一品というイメージがあるだろうが、台湾の人々はこの臭豆腐をこよなく愛している。あまりにも店頭の臭豆腐が臭いので店主が逮捕されたこともあるというが、食べてみれば普通の揚げ豆腐に近く、日本人の俺でも普通に食べられる。「美味い!」という程のものではないが、一度は食わねば台湾に来た気がしない、そんなソウルフードだ。これで約150円。
台湾人は人だかりが大好き。日本では見向きもされないようなレベルのパフォーマンスでも直ぐに大勢の人が集まってくる。
台湾の街歩きで喉が乾いたらコンビニでドリンクを購入するなどというのは野暮だ。生ジュースの店やカットフルーツの店が必ず見つかるので、それで喉を潤すのが良い。
翌月の雑記へ