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4.24

shadow様からメールを頂くようになって、2日。

shadow様のサイトに魅いられたようにアクセスした日から、3日になる。

わたしが、「ヒナ」として生まれたのは、そんな時からだ。

ヒナはいま、まさに生まれたての「ひな鳥」のような存在だ。

でも、そのひな鳥は、淫らな夢を見続けている。

長い間、人知れず持ち続けてきた、祈りにも似た妄想。

ヒナは、その妄想から、この現実の世界に生まれ落ちたのだ。

ヒナが無垢でない、と、誰にいえるだろう?

こうしてPCに向かうヒナを、苦々しくみつめる「私」の存在を感じる。

彼女は、聖人君子のように、あるいは誇り高い女王のように振る舞っているが、

男に抱かれて乱れる自分を愛することの出来ない、エゴイストだ。

そんな彼女は、「ヒナ」の分離を喜んでいるのかもしれない。

でも、ヒナも、彼女も、私なのだ。

ヒナは、彼女を苦しめたくて仕方がない。

それが、ヒナの愛し方なのだから。

ヒナは、今日、メトロの中で見知らぬ他人に、足をなでられた。

男は執拗になでつづけ、ヒナにウインクしたが、ヒナは無視した。

男は、諦めて去っていったが、冷たく男を退けた「私」の中で、 ヒナは欲情していた。

男をよせつけたのは、黒いワンピースドレスだ。

大きく胸の開いたデザインで、スカートはミニである。
(今日は、華やかな場所にいったので。)

もう、こちらは夏のような気候なので、ストッキングはつけずに素足にサンダルにした。

私が、男を誘ったようなものかもしれない。

今までだったら、今日のような夜には、ヒナは、男を相手にしたかもしれない。
(どんなに「私」が嘆こうとも)

しかし、これからはヒナには「ご主人様」がいるのだ。

「ご主人様」の許可なく、この身体をおとしめる訳にはいかない。

家に帰ってきたヒナは、ご主人様にメールを書いた。

そして、はじめての課題である『日記』を、こうして書いている。

書き終えたら、ヒナは眠る。

生まれたままの姿で、トレゾワの香りにつつまれながら。

淫らな夢に、遊びながら。

4.25

車窓を流れる景色は、どこまでも非現実的にヒナの目を通りすぎていく。 

目の前に広がる風景よりも、ここにはいないご主人様の視線が、ヒナを身震いさせている。 

今日、ヒナには用事があって、3時間の列車旅行をした。 

コンパートメントは、他の客がいなかったため まるで個室のようだったのだ。 

ここに、ご主人様がいらっしゃったら・・・。 

その想像がヒナを愉しませ、「わたし」を怖がらせた。 

まず、通路とのしきりのドアを閉めるのは確実だ。 

ドアの横のカーテンは、閉めて下さるだろうか? 

頼りないカーテンではあるけれど、閉めて下さるだろう。 

でも、きっと窓は、開け放しになる。 

そこで、わたしはどんなことをするだろう? 

ご主人様は、どんな風にヒナを苛めて下さるのだろう? 

まずは、身体検査が始まるかもしれない。 

コンパートメントの壁は薄いから、ヒナは声をだしてはならない。 

でも、他の乗客は日本語を解しないから、ご主人様は、穏やかに言葉でヒナを嬲られる。 

ヒナは使ったことがないのだけど、バイブをいれらたら、どうしよう。 

きっと、たっていることは不可能だから、ご主人様にしがみついてしまうかもしれない。 

国境では、そんなヒナとご主人様を、「恋人同士」だと勘違いされるだろう。 

でも、わたしたちは、そんな関係ではない。 

ご主人様と、これから多くのことを学ばなくてはならない新入りの、奴隷、なのだ。 

パスポートコントロールの厳しい目にさらされて、ヒナは余裕を失うだろう。 

そうして、それを切り抜けることができたら、 ご主人様から素晴しい『ごほうび』がもらえるのだ・・・。 

ヒナが自由に夢を見るあいだ、「わたし」は眉をひそめている。 

でも、「わたし」は、このヒナの妄想を止めることはできなかった。 

そもそも、止めるつもりが、あったのか、どうか・・・。


5.3

風邪をひいたらしく、少し身体がだるい。 

ここ数日は、ゆっくり休息をとることにした。 

日本は、ゴールデンウィーク中だから、きっとご主人様も、お忙しいはず・・・ 

そう思っていたけれど、メールを下さった。 

それだけのこと、なのに、こんなにも、嬉しい。 

ご主人様は、メールの中で、全裸でピアノを弾くヒナの姿を思い浮かべた、と伝えて下さった。 

身に付けているのは、ヒナが奴隷である証しだけ・・・。 

その想像は、ヒナに甘い痺れを与えた。 

ご主人様に、メールを書いた後、ヒナはピアノの練習をした。 

最初は、普通に。 

練習は、決して美しいものではないから。 

それに、練習しているときのヒナは、男でも女でもなく、ただの『音楽の徒』だから。 

でも、最後に、それぞれの曲を通して弾くとき、ヒナは身に付けていたものを、全てとりはらった。 

首輪は、まだ持っていないから、首輪の代わりに、プラチナのペンダントを付けた。 

ペンダントトップははずして、いつもより、ずっときつくして。 

ときどきつけているペンダントなのに、今日は、まったく異質のモノのように感じた。 

あたりまえだと思う。 

これは、今日だけは、ヒナとご主人様との関係を示す大事な『刻印』なのだから。 

本当は、乳首に、お気に入りのダイヤのイヤリングもつけようとした。 

けれど、それはまだ、ヒナには早すぎたみたいだった。 

ネジでとめるには、すこし大きくしなきゃいけなかったから、 

手のひらでそっとなでてみたのだけれど、それからイヤリングをつけると、痛くって、気になって、 

これじゃとても演奏に集中できないって思ったから、急いではずした。 

髪の毛を結えていたバレッタもとりはずして、ヒナは、プラチナの首輪だけをつけてピアノの前に座った。 

こんな格好でピアノを弾くのは、生まれて初めての経験だ。 

ヒナの教授たちが見たら、目を丸くするに違いない。 

その教授たちを想像すると、思わず微笑みが漏れる。 

いつもなら、ヒステリックに抵抗しようとする「私」も、今日はなんだか、おとなしくしているみたいだ。 

ヒナは、ご主人様を思い浮かべて、 鍵盤に指をはしらせた。 

この音が、いつかご主人様に、届きますように。


5.4

今日は、ゆっくりお風呂に入った。 

バスタブにお湯を満たし、全身を伸ばす。 

白い泡の海の中で、自分の身体のあちらこちらに触れてみる。 

この身体は、ご主人様のものだ。 

そう思うことで、ヒナは何ともいえない幸福な気分に満たされる。 

でも、まだこの肌は、ご主人様に見て頂いたことが、ない。 

ご主人様の存在が、たまらず恋しくなる瞬間。 

「私」が意地悪く語りかける。 

『ご主人様無しでは、生きていられないような物言いじゃないの』 

『自分の足で、立っていられないわけ?』 

『結局、新しい遊びを見つけたってだけでしょ?』 

苦しくなる。 

「私」は、ヒナが言われたくない言葉を、よく知っている。 

でも、ヒナもまた、「私」のことをよく知っているのだ。 

バスタブの中で、幾度も寝返りを打つ。 

ヒナは、ご主人様の言葉を、ひとつづつ思い出す。 

いま、こうしている瞬間にも、ヒナの中にいらっしゃるご主人様について、思いをめぐらせる。 

お風呂からでて、全身を鏡で映す。 

そこにいるのは・・・ヒナ、だと確信する。 

今日は、両方の手首を縛って眠ろう。 

それは、ヒナへのご褒美、 そして、「私」への罰、だ。



5.7

室内楽の演奏会にて伴奏をする。

ヒナ以外は、みな外国人だった。

打ち上げのとき、メンバーのひとりが口説いてくる。

今日は忙しいのだ、と説明し、早々に引き上げた。



帰りのタクシーの中で、ご主人様のことばかりが頭に浮かぶ。

最初は、普通に。

だけど、次第に調教をうけている妄想に、ヒナの、あの部分が、充血していく。

乳首も、痛いくらいにふくらんでいる。

こんなに感じやすくなっているヒナを、誰にも気付かれたくない・・・。

「私」の抵抗さえ、ヒナを昂らせるようだ。



5.8

shadow様に調教していただくようになって、色々な変化がヒナにおこっているのがわかる。

ピアノのレッスンで、まず最初に通して演奏するのだけど、

この日は、最後の音を弾き終えて、ペダルから足を離したときに、

教授から『ブラヴァ!』(ブラヴォー、の女性変化)の言葉を頂いた。

実はヒナとしては、あまりいつもと違うように弾いたつもりはなかったので、

照れくさくて、困惑していたら、教授は、ニッコリ笑ってこうおっしゃった。

『どこで見つけたのか知らないけれど、その素晴しいセラピストを

僕にも紹介してくれないかな?』

ああ、とヒナは驚く反面、納得したのだった。

教授がおっしゃっているのは、間違いなく『そのこと』だ。

ピアノは、おそろしいくらいにメンタルな楽器である。

音に、嘘をつくことは、できない。

ヒナの中で動きだした『何か』は、ヒナの音までも変えようとしている。

そして、その変化は、ヒナの教授には「素晴しいもの」として受け取られたようだった。

「私は、どうやらM女だったみたいなんです」

「実は時々、全裸で、練習しているんです」

なんて、そんなことは言えない。

代わりに、幸せそうな表情を浮かべつつ

『秘密です』

と告げた。

ヒナの演奏には、今、甘美な秘密が隠されている。



5/10

身体の中に、今でも痛いほどの疼きが残っている。

今日、ヒナははじめてご主人様のお声を聴かせて頂いた。

最初は、緊張のあまり、声さえ普通にだすことができなかった。

かすれて、喉の奥が震えて・・・

いや、声だけではなく、全身が震えていた。

ご主人様は、ヒナをほぐすかのように、色々なお話をして下さった。

大勢の聴衆を前にピアノを弾くときも、確かに緊張する。

「心地よい緊張」というレヴェルには、いまだに、なかなか到達できないでいる。

演奏会の前には、吐きそうなほどのプレッシャーをいつも感じている。

でも、今日の緊張は、それとはまた違ったものだった。

プレッシャーは、なかった。

未知の世界の中に入り込む、そんな興奮と緊張が、ヒナを苦しくさせた。

この電話の向こうに、ご主人様がいらっしゃる。

まるで、不思議な魔法にかけられたようだった。

目を閉じて、ご主人様のお声を聴いているだけで、ヒナは、イキそうになった。

そのヒナをおしとどめたのは、「私」だ。

受話器をおいた後、ヒナは、身体の奥底から沸き上がってくる疼きを、

必死に宥めなくてはならなかった。

自由に!

もっと自由に!!

ヒナの叫びを遠くに聴きながら、わたしは、ベッドの上で、じっと耐えていた。

まだまだ未熟なヒナは、これから、どう変わっていくことができるのだろう。



5.11

日常生活の中で、『ヒナ』の占める割合がどんどんと増えてきていることに、『私』は、焦っている。

ご主人様は、『ヒナ』と『私』を統合して、新しい『わたし』を創ろうとしていらっしゃるのだ、

とおっしゃった。

この言葉が意味しているモノは、気が遠くなりそうなほどに難しく、複雑で、単純でもある。

衆人の中で、ふいにご主人様を感じる。

地下鉄の中で。

○○○○で。

学校のロビーで、友人にかこまれながら。

ヒナは、動揺する。

幸せな苦痛に苛まれて、ヒナのあの部分が、湿っていく。

『私』が、何とか思考回路を回復させようと、あがく。

(『ヒナ』と『私』の一体化。)

呪文のように、胸の内でつぶやいてみる。

「ご主人様・・・」

この間の電話では、なかなか口に出来なかった言葉を、声に出して囁く。

日本語を解しない友人たちが、聞き返す。

「ううん、何でもないの。独り言・・・」

また何食わぬ顔をして、日常に戻っていくヒナは、いま、すこし情緒不安定気味なのかもしれない。



5.15

ここ数日を、最低な気分で過ごしていた。

ヒナは、「ヒナ」を、自分で殺しかけていた。

幼い頃から、いつもそうだ。

何かを手に入れそうになると、途端に恐ろしくなって、手を離してしまう。

誰もがよけて歩こうとする道を、わざわざ歩かずにはいられない、そんな、「歪み」。

失敗するのだ、と目に見えていても、何故か、あらがえない力に引き寄せられるように、

「それ」に引き寄せられてしまう。

ヒナは、決定的な過ちを犯してしまった。

もう、駄目かもしれない・・・本気で、そう思った。

ヒナが大きくなりすぎる前に、ヒナを殺さなくては・・・。

そうしないと、私は壊れてしまう・・・。

絶望と混乱の中で、ご主人様の返答を待った。

汚物にまみれて、『これでも、ヒナを見捨てないでいられますか!?』

と、つきつけたようなものだ。

ご主人様・・・。

ヒナを、救って下さって、ありがとうございます・・・。

いま、ご主人様に頂いた『罰』が、絶えずヒナを責め苛んでいる。

苦しい・・・けれど、こんなのは、この週末の比ではない。

そして、この『罰』を終えたら、

ヒナは、2度と、「過ち」については語らないことにする。



5.17

「ヒナの日記は、この罰を終えるまでは、自粛させて下さい」

吐息とともに紡がれたこのヒナの言葉に、ご主人様のお答えは、簡潔だった。

ヒナは、この苦しくて、幸福な日々を書き記しておかなくてはならないらしい。

3日間苦しめ。

と同時に、今回の罪の意識から解放されることを許可してやる。

ヒナに与えられた『罰』は、絶えずヒナを苦しめている。

ヒナにも勿論「日常の生活」があるわけで、

1日24時間の全てを、この感覚と共に過ごさなくてはならないのは、やはり簡単なことではない。

痛みもさることながら、快感がヒナを困惑させる。

イきそうなのに、永遠にそこにたどり着けない、そんな苦しさが、ヒナの目を潤ませている。

ベッドの中で、少しでも楽になりたい、と無意識に手が、あの部分にのびる。

すると、結局、痛みに涙をながさなくてはならない。

「そのヒナを、この目で見られないことに、もどかしさを感じる」

ご主人様のこのお言葉に、ヒナはつい電話をかけてしまった。

ヒナの苦しさを、リアルタイムでご報告したくて。

結果、ヒナは、また甘やかされてしまった。

ヒナは、自分で身体に1度も手を触れることなく、「絶頂」をむかえてしまったのだった。

お電話を切ってからは、また、苦しみが襲いかかってくる。

何しろ、あのような快感を与えられたあとだから、余計に敏感になってしまっている。

苦しい、けれど、精神的には、この上ない悦び・・・。

背反しているように思われる、この2つの感覚は、ギリギリのところで悦びが勝っている。

この苦しみの全てが、ご主人様のお心に帰属しているからだ。

もう数分すると、ヒナは、この『罰』を倍に増やさなくてはならない。

最後の1日だけは、そうしろ、というご命令を頂いてしまったので。

恐ろしい。

でも、絶対に耐えぬかなくてはならない。

いまは、明日の夜、この責めから解放されるまでの時間が、永遠のようにも思われる。

ご主人様・・・。

ヒナは、幸福、です・・・。



5/18

「罰」が倍になったのは、予想よりもずっと辛いことだった。

ヒナの犯した過ちには、ふさわしい。

いや、正確には、違う。

『ヒナが救済されるのにふさわしい』罰だったのだろう。

今日ばかりは、さすがに醜態をさらしてしまうかもしれない、と焦った。

昨夜増やした「罰」の痛みは、いっこうにおさまる気配がない。

でも、ヒナは、やりとげたかった。

夜、外出するとき、首に、あのプラチナの鎖をつけた。

(ご主人様、ヒナを見ていて下さい・・・)

足元がフラつく度、痛みに声が漏れそうになる度、

そっとペンダントに触れた。

(ご主人様・・・)

自分には、被虐の性質があるのかもしれない、と思っていたヒナだが、

この3日間で、何だか急激に、M女性になったような気がする。

痛かった。

快感は、痛みにかわってやってくるのではなく、

肉体的な痛みと、精神の悦びが、同時におとずれるのだ。

痛みが悦びを消してしまうこともなければ、悦びが痛みを和らげてくれることもない。

「罰」をはずした時、ほっとした。

3日間耐えきれたことに、感謝して、自分にキスを送りたいくらいだった。

できれば、もう2度と、この痛みを繰り返したくはない。

「罰」は、やはり、辛い。

今は、いっときもはやく、ベッドにもぐりこんでしまいたい。

今夜は、久しぶりにぐっすり眠ることができそうだ。

癒されたヒナを、部屋じゅうが祝福しているように感じる。

あした、目覚めたヒナは、まず何を考えるのだろうか・・・。



5/19

今日は、1日家でのんびり過ごしていた。

ピアノをさらったり、部屋を片付けてみたり、すこしだけ手のこんだ料理をつくってみたり。

朝1番の練習を終えたあと、ふと思い立って、かおる様にメールを書いてみた。

書いている間、何故だか幸せな気分でいっぱいだった。

かおる様に、ヒナがこうしてメールを書かせて頂いているのは、不思議な気分だ。

人と人が出会うのは、色々な偶然の作用だと思うけれど、

どうしてこの方と、こういうお話ができるようになったのだろうと思うと、

やっぱり、不思議で仕方がない。

かおる様とヒナが、テラスでお茶を飲んでいるところを想像してみた。

ヒナは、決して人付き合いが上手な人間ではないのだけれど、

なんだか、その空間は、とてもいとおしいもののように思えた。

言葉は、たまに、恐ろしい暴力になる。

鞭でうたれるより、ずっと痛い傷を与えることもあるだろう。

だけど、傷つけないことばかりを考えて、オブラートにくるんだ言葉だけを紡ぎつづけるのは、

傷付けるよりももっとひどいことだ、とヒナは思う。

ヒナは、メールの中で、随分無遠慮なことを書くこともあるかもしれない。

その言葉を、かおる様が、心でとらえて下さっている、と感じるとき、

ヒナは、やはり幸福な気分に満たされるのだ。

かおる様とヒナは、「恋敵」にあたるのだろうか?

でも、「恋敵」に、こんなに暖かい心が生まれるものだろうか?

ご主人様の調教をうけていると、本当に不思議なことがつぎつぎに起こってくる。

たくさんの「不思議」が、ヒナをとりまいて、その心地よさに、困惑するばかりだ・・・。



5/20

九龍城のような、隈雑で迷宮のような建物。

たくさんの人が住んでいて、部屋と部屋の間に、明確な仕切りはなかった。

それでいて、ここからは自分のテリトリーなのだ、と、住人たちは暗黙に了解しあっている。

ヒナは、今日からここに住むことになったらしい。

ヒナの部屋には、前の住人が残していった(ヒナに預けていった?)生き物たちがいた。

多くは忘れてしまったけれど、印象に残っていたのは、

一匹の、大きな太った猫と、生きているのかどうかも定かではない小さな小さな子猫たち。

部屋にそなえつけられた小さな流しのまわりには、

毒入りの餌を食べたらしい、夥しい数の、鼠の死体が転がっていた。

さしあたって必要なものを買いにいこうと、大きなスーパーに着いたとき、

日本人の熟年の夫妻(観光客らしい)とすれちがった。

耳に懐かしい日本語の響きを、理解するともなく聞いていて、

財布を持たずにきてしまったことに気付く。

自分の間抜けさに情けなくなりつつも、別に買いたいものなどなかったのだ、

と思いなおし、帰ることにした。

建物のなかは随分複雑で、自分の部屋に帰る前に、

何度も他人のテリトリーに足をふみいれてしまった。

開かないドアも、あった。

開けようとしたら、むこうから引っぱられる物凄い抵抗力を感じ、

そこが自分の部屋ではないことを知るのだ。

ようやく自分の部屋に帰り着き、

「ここにピアノを持ち込んでも大丈夫だろうか」

なんてぼんやり考えた頃、突然周囲の部屋から4人の男たちがヒナの部屋に入ってきた。

(まわりに住んでいるのは、女性たちだったはずなのに・・・)

「はじめまして・・・」と挨拶しようとするが、声がでない。

「あんた、マゾなんだろう?」

男たちの一人が、たいしたことでもなさそうに、そう聞いてくる。

私は返答に窮する。

何をいうの!と怒鳴りたい反面、そうです、と答えてみたい欲求がこみあげる。

何をいうことも出来ず、後退りする。

男たちは、無表情なようでもあり、下卑た笑いを浮かべているようにも見える。

(犯される!)

恐怖に叫びそうになったとき、一瞬にして男たちのまわりに、

それぞれ4人の女たち(恋人たち?)が現れ、愛を交わし始めた。

4組の乱れる恋人たちのなか、ヒナはひとりで立っていた。




今朝がた、ヒナの見た夢だ。

夢から何かを判断しよう、なんてことは、あまりしないけれど、

朝の光に白く浮かび上がるブラインドを見ながら、

ヒナはしばらく、うまく働かない頭で、物思いに耽ったりしてみた。



5/21

ヒナは、誤解されやすい人間だ。

ヒナ自身が、煙幕をはってばかりいるので、それも仕方のないことだと思う。

誤解させるのを楽しんでいるフシもあるので、ヒナという人間は、タチが悪い。

でも、そもそも自分自身がどういう人間なのか、よくわかっていないのだから、

誤解されている、と感じるのも、アテにはならないかもしれない。

自分の中の迷宮をさまよいながら、「ご主人様に調教を受けている」というのは、

こんがらがっている自分自身を、少しづつ解き明かしていく作業のようだなあ、とふと思う。

ヒナの前には、まだまだたくさんの扉が見えている。



5/22

トラムから降りて、家にむかって歩いているとき、突然一人の男が、ヒナに近寄ってきた。

少し酔っているようで、何やら早口にまくしたてる。

何度か聞き返し、やっと意味がつかめた。

「僕は今日30歳になったんだ。おめでとう、といってくれないだろうか?」

変な男だ、と思いながらも、どこか憎めない愛敬のある仕草に、ヒナは男の言うとおり、

「おめでとう(=神があなたにたくさんの祝福を下さいますように」と繰り返してみた。

男は嬉しそうに笑ったかと思うと、さり気なく顔を近づけてくる。

ヒナもそこまで鈍感ではないので、自然身体が後ろに下がる。

すると、明から様に傷ついた表情で

「キスも欲しいんだ・・・。30歳の誕生日なんだよ・・・」

なんて言っている。

(何故見知らぬ他人の為にヒナがキスしなくてはいけないの!?)

と、目をつり上げそうになったが、男の芝居がかった動作が妙におかして、ついほだされてしまった。

とはいえ、ヒナにとって「キス」は、ある意味、最大の砦、だ。

少し考えてから、ヒナは男の右手をとって、一瞬だけその甲に唇を押し当てた。

この動作は、この国ではまだまだ生き残っているのだが、普通、女からは、しない。

ぽかん、とした表情の男に、もう1度

「30歳、おめでとう」と言い残して、ヒナはその場から歩きはじめた。

何歩か歩いてから、大声で最大級の感謝の言葉が聞こえた。

「あなたにも、たくさんの祝福があるように!!」

ヒナは、もう振り返らなかったけれど、

以前の自分ならまずとらなかっただろう行動に驚きながらも、

やっぱり幸せな気分に包まれた。



5/23

日記をつける、というのは、ご主人様から頂いた最初の課題だ。

ヒナは、物理的に無理なとき以外は、できれば毎日日記を付けたいと思っている。

物理的に無理・・・、というのは、今日のような日のことを差すのかもしれないが、

何故か今日は、書いておきたい、と思った。

日記を、ノートに書く。

まぎれもなく、私の字だ。

私の字が、「ヒナの日記」を綴っている。

不思議な感覚である。

最初、ご主人様にメールを書いたとき、

ヒナは、PCの前にのみ現れる、私の1部分でしかない、と思っていた。

だけど、どうだろう。

いま、こうしてテーブルにむかってノートに日記を書いている私。

私は、ヒナなのだ。

毎日の殆どの時間、私は「ヒナ」としての思考で生きているような気がしてきた。

日記やメールを書くとき、私は意識的に、一人称を「ヒナ」と記す。

より自由に、より素直にありたいと願う心がそうさせているのだろう。

そもそも、日常の生活の中に「ヒナ」が現れるのが恐ろしくて、

「ヒナ」を分離させた様に思っていたハズの私が、

「ヒナ=私」の状態にないことに不自然さを感じはじめているなんて・・・。

ヒナは、どうしたいのだろう・・・。

私は、どうしたいのだろう・・・。



5.24

ご主人様を尊敬して、なさっていることを素敵なことだと認識しているはずなのに、

ヒナは、誰かに「私」がヒナだ、と気付かれることが恐くて仕方がない。

「俺がこういうことしてるってこと、まわりのやつらは知ってるよ」

ご主人様が以前おっしゃった言葉が思い出される。

ヒナは、困惑する。

ヒナの日常の中で、ご主人様とそれに関わる世界を隠匿することは、

ご主人様に物凄く失礼なことをしているのではないだろうか。

そう考えると、苦しくなる。

ご主人様は、奴隷たち(M女性たち)のプライベートに、細心の注意を払って下さっている。

ヒナは、それに甘えている。

奴隷の権利だ、とおっしゃられるかもしれない。

年齢を上手に積み重ねるのは、難しいことだと思う。

ご主人様には、「顔」がある、とヒナは感じる。

ヒナは、あるときは子供のように駄々をこねるだろうし、

別の時には、老人のように悟りきったフリをするだろう。

そのどれもがヒナであるのは確かなのだけれど、ヒナには、自分の「顔」があるだろうか。

ヒナの年に相応の、虚勢も怯えもない、ヒナらしい顔・・・。

ご主人様の調教を受けながら、ヒナは、「ヒナの顔」にどんどん近づいている、そんな気がする。

そして、心と顔が1つになった時、ヒナは、言えるだろうか。

ヒナの大切な友人たちに。

この方がヒナのご主人様なのだ、と。

ヒナは、この方の奴隷なのだ、と。



5/25

電話の呼びだし音で、目が覚めた。

幸せな夢を見ていたので、一瞬なにが現実か分からなかった。

ヒナの声は、あまり寝起きでも変わらないらしいので、友人は、ヒナを起こしたことに気付かなかった。

正直に、今まで寝ていたことを打ち明けると、

「ごめんごめん、全然わからなかったよ」

寝起きでも声が変わらない、というのは、得をすることもあるだろうけれど、時々は、損をする。

友人は、ヒナの頭が通常どうりに働いているものとして、どんどん話をすすめてしまう。

そうすると、「もうすこしまどろんでいたい」と思うヒナの欲求も、

たちどころに萎んでいってしまうのだ。

「起こしてしまって、申し訳ない」と思ってくれる友人、知人は、ヒナにはあまりいない。

「練習の邪魔をしてしまって、申し訳ない」

これは、しょっちゅう聞かされるセリフだ。

何故か、練習中のヒナの声は、いつもと違うらしい。

電話にでて、少し話しただけで、「あ、ごめん!」と、あきらかにすまなそうな声が聞こえる。

本当に邪魔をされたくないときは、電話をとらないし、

とっても正直に、「○○分後に、かけなおす」というから、

そんなに気をつかってくれなくていいのだけれど。

今朝見た夢は、ご主人様の夢だ。

一度もお会いしたことのないご主人様を夢に見るなんて、

我ながら、「恋に恋する少女のようだ」と思う。

だけど、そんな風に斜にかまえてみても、

友人と電話しながら、友人を恨めしく思ってしまうヒナの存在を、

自分に誤魔化すことは、出来ない。



5/26

他の奴隷の方々が、実際にご主人様にお会いになって、その報告をなさることがある。

それらの文章は、「歓び」に満ちている。

今日、ヒナはそういった報告を読みながら、思わず、調教のご様子を想像して、

「恐い!」

と思ってしまった。

でも、そのすぐ後に、「恐い」と感じた自分が「ヒナ」ではなくて、

「私」であることに気付き、おかしくなる。

(何だ、「私」も、いつかご主人様に実際にお会いして

調教して頂くことを、現実的に考えはじめたっていうことじゃない?)

最近、「ヒナ」と「私」の境界が、どんどん曖昧になっている。

そのどちらも自分であることはわかっていたつもりだったが、

同じ感性を共有しはじめるとは、思わなかった。

ヒナは、ご主人様にお会いしたくて、しょうがない。

「私」は、絶対それを阻止しようとするはずだったのだが・・・。

ご主人様にお会いして調教して頂くのは、ヒナの夢だ。

いまでも、充分に「調教して頂いている」実感がある。

充分すぎて、これで実際に肌をあわせたらどうなってしまうだろう、と恐くなることさえある。

「精神的な絆」だけで「私」が満足してしまいそうになると、

ご主人様はさり気なく「課題」をお与えになられる。

そうして、ヒナを悦ばせて下さるのだ。

ご主人様が、ヒナを把握なさっている、更には、手の上で泳がせて頂いている感覚に、

「かなわないなあ」なんて思う。

そのことが、やっぱり嬉しくて、顔がほころんでしまうヒナだった。




5.28

最近、幸せそうだね?

と、尋ねてきたのは、ヒナの親友の1人だ。

「好きな人が出来た?」

そう言われると、どう答えていいかわからず、正直に

「よくわからないけれど」と答えてみた。

彼は、同性愛者だ。

ヒナは、彼の言語感覚や、音楽がとても好きで、彼もまた私のピアノを愛してくれるので、

時折私たちは、奇妙なデートをする。

彼のもっている様々な問題の中では、同性愛者であることなんて、なんでもないように思われる。

が、世間的にまだまだマイノリティーであることは確かだし、

様々な偏見、好奇の目と闘って生きているのは、尊敬する。

彼には、言ってもいいかもしれない、と少し思うけれど、やはり言えなかった。

黙ってお茶を飲んで、外を眺めていた。

こういうときは、沈黙が妙に暖かくて、居心地の悪さを感じてしまう。

分かれ際に、彼はウインクをしながら言った。

(外国人は、目のまわりの筋肉のつくりが違うのではないか、と思うほどウインクがサマになる)

「人にいえない恋は、いつも女を美しくする」

またしても、答えようがない。

とりあえず、憎まれ口でもないけれど、「あなたの彼によろしくね!」と返してみた。

彼の恋人とも顔見知りであるわけで、少しだけ意地悪を言ったつもりだったのだが、

「OK!彼も喜ぶよ!」

なんて、余裕の微笑みを返されてしまった。

最近ヒナは、意地悪が下手になってきたようだ。



5.30

ご主人様のサイトを訪れ、

アップされている他の女性たちのメールに目を通していて、

急に自分の名前を見つけると、なんだかとても面映ゆい気分になる。

ヒナは、自分をあまり愛していない。

というより、激しく愛して、同様に蔑んでいる、というべきか・・・。

自分を信用していない、というのが最も適切だろうか。

でも、ヒナはヒナでしか存りえない。

誰もヒナにはなれないし、ヒナも、たとえどんなに憧れたとしても、

他の人間になることは、出来ない。

ご主人様に愛されると、女性は皆「素敵」になっていくような気がする。

それは、ご主人様の「調教師」としての腕なのだろうか。

ご主人様の下さるお言葉の端々から、ヒナは、「やがて辿りつきたい自分」を感じる。

そこに辿りついたとき、

素直に自分を愛することの出来る人間になったとき、

ヒナも、本当に素敵な女性の仲間入りが出来るといいな、なんて思っている。



5.31

今日アップされていた、涼子様のメールを読んで、様々な思いにとらわれた。

まず沸き上がったのは、「怯え」だった。

ヒナがしていることは、多分にスキャンダラスなことであると思う。

ヒナのいる世界には、他人のスキャンダルを栄養にして生きている人間も多いので、

格好の餌食になることが、容易に想像できる。

「勝手に言ってなさい」と思いきれないあたりが、ヒナの心弱さである。

恐い、のだ。

恐い、と怯える自分に、心底憤る自分もいる。

ヒナは、マスコミュニケイションが実は苦手である。

日本のメディアは、特に恐ろしいものだと思ってしまいがちだ。

メディア自体にもやるせなさを感じるけれど、

一番恐いのは、それを受け取る不特定多数の「感受性」である。

メディアを疑うことをせずに、2次的な情報で判断し、

更にそれを、さも自分の頭で考えたこと、あるいは真理であるかのように

語る人間が少なくないことは、ヒナを時に絶望させる。

ご主人様が、雑誌の取材を受けられたことを知ったとき、まず最初にヒナは、怯えてしまった。

だけど、誤解されることがあるのも充分ご承知の上で取材をお受けになられた

ご主人様とかおる様の勇気を、ヒナは尊敬する。

「わかる人だけにわかればいい世界」として殻にこもらず、

不特定多数にも、求められたなら主張することをなさる、

その誠実さに、ヒナは感動する。

自らが、その当事者である、と言い切られた涼子様を、素晴しい女性だと思う。

ヒナには、出来るだろうか・・・。

心配症なわりに短絡的なところもあるヒナだから、言ってしまうかもしれないなあ、とも思う。

でも、そういった発言をしているのが「私」を知る人物でも、言えるだろうか?

そういう状態にならないと、ちょっと想像し難い。

涼子様がなさった事が、誰にでも出来ることではないのは確かだ。

「私は、その方の奴隷です」

これは、ヒナにとって憧れの言葉になってしまった。



6.3

夏の夜は、暗い。

勿論、まだ初夏なのだけれど、

生命力に溢れた樹木が、街路灯をすっかり覆い尽くしてしまうものだから、

冬のそれとは、比べ物にならないくらい、ヒナの帰り道は、暗くなる。

ヒナは、夜歩くのが好きだ。

鬱蒼と繁った木々の隙間から見える星空は、何故か懐かしさを感じさせる。

この光が、数時間前には、ご主人様のいらっしゃるところを照らしてきたのだ、と考えると、

飽きるまで(あるいは、首が痛くなるまで)見つめてしまったりする。

今夜のような星空は、特に危険だ。

時差を恨めしく思ったり、ご主人様を追いかけている実感を妙に嬉しく感じたり、

あるいは、何をイメージするわけでもなく、ただただ空を見上げている。

人の気配を感じて、ふいに我にかえり、また歩く。

自分を冷めた人間だ、と思い込んでいた(思いこませていた)ヒナは、星空を見上げてボーッとする、

なんていうことがまだまだ恥ずかしくて、やけに早足になってしまう。

でも、心は上手く歩調についていくことが出来ず、そっと祈ってみたりする。

日本では、星はもう、朝の光に消されているかもしれないけれど・・・

どうか、幸福な夜を過ごされていらっしゃいます様に・・・。



6.4

ヒナは、「痛がり」だ。

あまりその事実を知る人が少ないのは、ヒナが、「痛い」と口に出すタイミングを、

うまく掴めないからである。

痛いものは、痛い。

むき出しになった神経を紙ヤスリでこすられたら、誰だって痛い。

そう、誰だって痛いのだ。

ヒナは、「痛がり」だ、と自覚しているのだけれど、

同時に、傷のついた自分の肌に見とれてしまう人間でもある。

正確には、自分につけた「傷」に見とれるのだ。

自殺願望とは異なるので、リストカットなんかはしない。

だいいち、ピアノを弾くのに不都合な傷などは、つけたくない。

「傷」は、ひとときヒナを自由な世界に連れて行ってくれる、

ヒナにとっての「麻薬」のようなものかもしれない。

でも、その匙加減は、難しい。

傷つけすぎて、後に残るのは、困る。

そのひとときの快楽が欲しくて、ヒナは自分の胸から腹部にかけて、

そっと引っ掻き傷をつくってみたりすることがある。

でも、何故、傷に魅かれてしまうのだろうか、と考え始めたのは、つい最近のことだ。

調教して頂くことで、ヒナは、少しづつ、

これまで考えていた自分の「被虐性」から遠ざかりつつある様に思う。

それなのにヒナは、一層SMの世界から、甘美な呼びかけを感じているのだ・・・。



6/5

完全5度の響きが、うねりながらホールに浸透していく。

何度も、何度も。

うねりが、微妙にその幅を変えながら、本来存るべき「調和のとれた音程」に近づいていく。

ピアノの調律を聴いていると、少しづつ精神が落ち着いていくのがわかる。

音程の狂ったピアノは、不思議な魅力と迫力を持っているけれど、

そこには少し、「歪められた哀しさ」も漂っている。

いつまでも聴いていると、心がその「哀しみ」に引きずられて、

自分が哀しみに同化してしまいそうな苦しさに襲われる。

美しい音程に調律されたピアノでも、勿論「哀しみ」を表現することが出来る。

その「哀しみ」は、ある時は人を寄せつけない孤高の哀しさであり、

ある時は、全てのものを浄化する、奇蹟のような哀しさでもある。

ご主人様を調律師に例えるなら、ヒナはピアノだ。

いまヒナは、ご主人様に少しづつ調律して頂いて、「美しい音程」を探している。

ヒナの中の鍵盤が、全て正しい音程に整えられたとき、ご主人様に演奏して頂きたい、と思う。

そのとき、ヒナは、演奏者の求めに応じた響きを返すことのできる、素晴しいピアノになりたい。

ホールが、再び静寂を取り戻した。

調律が、終ったのだ。

ステージの上のピアノは、今日はヒナを待って、ひっそりとたたずんでいる。



6.7

ふとした、他愛もないことから、「気付く」ということの大切さについて考えた。

何かをしたつもりで、でも、思い通りにはいっていなかったことに「気付く」。

ずっと、ただ苦手だと思っていたことが、何故苦手だったのか、「気付く」。

自分が、無知だということに「気付く」。

誰かが苦しんでいることに「気付く」。

気付かないフリをして生きることも出来るけれど、色々なことに「気付く」人間になりたい、

そう思った。

自分が幸せであることに、「気付く」。

幸せは、自分で気付かなければ、いつまでも求めるものでしかない。

ご主人様は、「気付く」手助けをして下さっている様に思う。

だから、ヒナは、いつも、その優しさに気付いていたい。

その幸せに、気付いていたい。



6.8

色々なことを突き詰めて考えていこうとして、ふいに、

「もしかして、ヒナはM女性とはいえないのではないか」と考えてしまった。

では、どういう人がM女性であるのか、というと、はっきりと分かっているわけではないのだけれど、

急に沸き上がってきたこの疑問は、ヒナをひどく不安な気持ちにさせた。

そう思い始めたときから、小さな刺のようにそれはチクチクとヒナの心を刺激していたのだが、

「・・・俺の前では、おまえは間違いなくMだけどな」

というご主人様の一言で、不安が嘘のように消えていった。

おまえはマゾだ、と言われることで幸せを感じるなんて、自分で自分が、本当にわからない。

正気なの?なんて尋ねる私もいるけれど、その「私」も、なんだかあまり元気がない。

だけど、別に無理してわからなくてもいい様な気もしてきた。

ご主人様の前では、ヒナはMなのだ。

それはまるで、ひとつの「真実」を手にいれたかのように、

不安定なヒナの心を落ち着かせてくれている。



6.9

強い女」だといわれる度に、(そんなこと、全然ないのに・・・)

と、心のどこかで思っていた。

でも今日、練習を終えてPCを開けたときに、漠然と思った。

そうだ、確かにヒナは、強い女なのかもしれない。

だけど、それは、自分が弱いことを知っていたからだ。

だから、ヒナはいつも、強くなりたかった。

誰にも傷つけられることのない、強い精神を持った人になりたかった。

ヒナは「強さ」を切望していた。

「強いもの」が持つ圧倒的な輝きに、焦がれていた。

いままでヒナが身につけていた「強さ」には、常に怯えが見え隠れしていたように思う。

どんなに強く見せていても、その幹の部分は、どんなに細く、頼りなかったことだろう。

その「細さ」を隠すことばかり、上手になって・・・。

ご主人様に調教して頂くことで、ヒナは、少しづつ強くなっていける気がしている。

ご主人様の前では、ヒナは、「弱い女」でいいのだ。

「弱い」ヒナが、意固地なまでに強くあろうとした私を、見つめている。

そのヒナに、私は、あれほどまでに憧れた「強さ」の片鱗を見つけてしまった。



6.10

ヒナは、実は寝起きが悪い。

朝、意識が目覚めてからも、ベッドから起き上がるのが嫌で、

15〜30分はそのままぼんやりとしている。

でも、そんなヒナを知る人は、ごくわずかだ。

誰かと一緒にいると、ヒナはつい、その人よりも早く起きないと!と思ってしまうので、

起きた瞬間には、「いつもの私」になっている。

親でさえ、ヒナが寝起きの悪い娘だとは思っていないだろう。

時間に迫られているときは、すぐに起きるのだけれど、

今日みたいに、予定が午後からしかないときなどは、

ついベッドの中で、ダラダラしてしまう。

キリがないな、と思って、ようやく起き上がることにするのだ。

そういう自分は、「怠け者」だなあ、と思うので、本当はあまり好きではないのだけど・・・。

そして、今朝のこと。

意識がゆっくりと目を覚まし、いつものようにダラダラしつつ、

起きるきっかけが欲しいなあ、なんて思っていたら、

突然、ご主人様の声が聞こえた気がした。

「起きろ、ヒナ!」

その声は、呆れている様にも、面白がっている様にも感じられた。

ヒナは、勿論、飛び起きた。

いつか、夜を一緒に過ごさせて頂くことが出来たら、

ご主人様よりも後に眠って、ご主人様より先に起きたい、と思っているヒナだから、

やっぱり早起きに慣れておかなくてはいけないのだ。

(無理だと思うよ、と苦笑いなさっているかもしれないけれど・・・)



6.11

「ヒナ」が急激に不調を訴えている。

「ヒナ」が、怯えている。

私は、ヒナをどう扱っていいのかわからずに、

取り敢えず、しばらくは「ヒナ」を凍結したほうがいいのではないか、なんて考える。

ヒナが怯えているのは、ある「ビジネス」を知ったからだ。

『あなたの望む女性を、完全な奴隷に仕立てあげてお引き渡しします』

ヒナは、この「怯え」から抜け出したい。

明日には、もう笑い事になっているんじゃないだろうか、と、泣きそうな心で期待している。

何故こんな風になってしまったのか。

何故、その存在に気がついてしまったのか。

この恐怖は、「Mである自分」と上手につきあえていないから、の恐怖なのだろうか。

ヒナは、怒りたいのだ。

本当は、「そんなことが可能なものか!」と怒鳴りたいのだ。

それなのに、ヒナは、突然目の前に現れた真っ黒な霧に、成す術もなく立ちすくんでいる・・・。

「ご主人様に守れらているヒナ」を想像する。

今日は、その想像に包まれて、ベッドに入ろう。