薄暗いショットバーのカウンタースツールに腰掛けてビールを注文した。サングラスは外さない。初

めての店だが、セブンスターの煙をふてぶてしく吐き出す横顔は常連でさえ一歩引く凄みを帯びている。

スローなテナーサックスがスピーカーから流れ、煙草の煙がそのメロディーに合わさったようにゆっくり

と天井に流れていく。大きな喉仏を上下させて一杯目を飲み干すと、空のビアマグを軽く上げて二杯目を

催促した。

 神崎は二本目の煙草を吹かしながら厄介事の元、すなわち、工藤にも色目を使った夜のクライアントに

ついて考えた。ちゃんとした報酬さえ支払ってくれれば、どんな男と何をしようが一向に構わない。年下

の男をオモチャにしようが、総入れ歯の年寄りと遊ぼうがそれは自由だ。しかし、こちらの情報を漏らす

など明らかにルールに反する。現に銃で武装した男たちに襲われそうになったし、それは寝物語の範疇を

遙かに越えているだろう。報復することはないにしても、何か手を打つ必要がある。崩壊とは、ほんの小

さな一点から始まるのだ。

 神崎の夜のクライアントは一年に二,三回しか会わない関係も含めれば現在約20人いる。ここ三月ほ

ど会っていない女は除外してもいいだろう。そうすると十二名残った。中にはやくざと関係を持つなど想

像も及ばない女性もいるが、神崎はそれらも含めて手帳に書き込んだ。

 ポケットから携帯を取り出すと、番号発信が非通知モードであるのを確認する。一人目の宮崎香奈子を

ディスプレイに表示させると発信ボタンを押した。2コール目で出たが、声の反応はない。

「もしもし...」

 神崎はドスの聞いた声で訊ねる。

「はい...」

 やくざっぽい低音に怯えたのか、不安気な声が返ってくる。

「宮崎加奈子さんやな?工藤の兄貴からことづてがあるんや」

「はい?」

「そやから、工藤の兄貴からことづてや言うとんねん!!」

「....」

 バーテンがカウンターから節目勝ちに神崎を盗み見たが、サングラス越しに睨み返すと、すぐに俯い

て空のグラスを気まずそうにいじくった。

 返事がないので通話を切る。彼女ではなさそうだ。

 神崎は時折ビールを口にしながら同じ作業を繰り返した。ヒットしたのは皮肉にも最後から二人目だ。

「佐久間美佳さんやな?工藤の兄貴からことづてがあるんや」

「あ、はい、なんでしょう?」

 そこで神崎は通話を切った。残りのビールを飲み干し、小さく舌打ちする。怒りとも、呆れともつか

ない陰が横顔に表れた。

 佐久間美佳、危うくチェックから外しそうになった女だ。記憶の引き出しから美佳について引っ張り

出す。

 最後に会ったのは確か三週間前で、その時受け取ったのは二十万程だった。上場企業で経理事務をし

ていると聞いていたが、大人し目の部類に属する彼女がホステスのバイトはありえるにしてもやくざの

情婦とは、女はつくずく分からないものだと当たり前のことを再認識した。

 知り合ったのは経理学校主催の「公認会計士の実務」というガイダンスに神崎がパネラーとして招待

されたときのことだ。パネラーなどいい迷惑だったが、マクベイン・ミラー社の受けた仕事とあって断

り切れなかった。その日は午前の二時間ほどかけて約100名の公認会計士受験コースの生徒相手に

「公認会計士の実務とは?」という講演を行い、その後応接室に通されて仕出しを食べた。横には接待

役を命じられた学校講師が二人張り付いて下にも置かぬ扱いを受けたが、神崎は取って付けたような愛

想笑いに嫌気がさして一人散歩に出た。近場にあった猫の額ほどの公園で血を求めてたかってくるシマ

蚊を払いながら煙草を吸っていると、そこにたまたま佐久間美佳がやって来たのだ。神崎に頭を下げた

ので、さっきの受講生の中の一人だと知れた。手には文庫本と小さなポーチを持っていた。大人し目の

雰囲気だが、くびれを帯びた腰のラインとどこか誘うような瞳は既に少女のそれではなかった。それか

ら十分程雑談をしただろうか。別れ際、神崎は求められるままに社の名刺を渡すと午後のディスカッシ

ョンのため会場に戻った。その後も美佳から連絡が入ることはなかったが、二ヶ月ほど経った頃、偶然

にも梅田の大型書店の会計専門書のコーナーで再会した。その大人しい顔の造りとは不釣り合いなほど

のピンクのミニスカートをはいていたからなのか、あるいは、軽くウエーブかかったキメの細かな栗毛

色の髪から匂い立つ女の香りに誘われたのか今となっては定かではないが、とにかく十分後には喫茶店

のテーブルで向かい合っていた。そして夜、ベットを共にした。どちらかといえば、誘ったのは彼女の

方だ。翌朝、KOされて涎を垂らしながら木偶人形のように横たわっている美佳の枕元に、俺はジゴロ

だがら次に誘うのであればそのつもりでと書き残して部屋を出た。もう会うことはないだろと思ってい

たが、その日から二ヶ月に一度の関係が始まっていた。関係が一年を過ぎた頃、神崎に渡す封筒が重み

を増してかさばった。金の出所などはどうでもいいことだが、今思えば、その頃から工藤が彼女に落と

した金が自分に回っていたのだろう。順序から言うと工藤が神崎の女に手を付けたというこになるが、

そんな道理が通る相手ではない。

 いずれにせよ、美佳とは一度会う必要がある。今夜アポイントを取れば女性特有の直感でさっきの嘘

電話と結びつけられる可能性もあるので、四,五日空けて連絡を取ることにする。

 左手首に巻かれたデイトナは10時30分を指していた。まだ一仕事できる時間だが、あまり飛ばし

ても仕方ないさと、カウンターに千円札二枚放り出して店を出た。

 胃にワンパンチ足りないので終夜営業のデリカッセンでターキーサンドとサーモンサンドを買い求め

るとタクシーを拾って本町に向かう。車内にはスモークターキーの香ばしい匂いが充満した。

「結構な夜食ですなあ。私なんかいつもラーメンか蕎麦ですよ」

 中年の運転手が匂いにつられて話しかけてきたが、神崎はだたバックミラー越しに柔らかい笑顔を返

しただけだ。

 コルベットの停めてある無人有料駐車場に着くと、メーターは延長料金の上乗せで6.400円がカ

ウントされていた。入金口に万札を突っ込むと、ひっそりとした夜のオフィス街に小銭のジャラついた

音が響いた。

 タクシーランプが目立つ夜の新御堂を華麗なハンドル捌きでジグソーのように駆け抜け、次々とパス

していった。最も、大根のザク切りのようにそこらじゅう信号で寸断された幹線道路なので、すぐに追

いつかれるのはご愛敬だ。

 淀屋橋でメタリックブルーに塗装したスカイラインがパッシングしてきたが、神崎は相手にしない。

スカイラインはクラクションを叫きながら神崎を追い越すと赤信号に突っ込んで行った。神崎はゆっく

りとブレーキを踏み込んで白線ちょうどに停車する。右手には大阪市庁舎が見えているが、この時間に

してはやけにたくさんの窓々から明かりが漏れており、エントランスには報道クルーの照らすバッテリ

ーライトの先にマイクを持った現場アナウンサーの姿がある。スキャンダルで世論を賑わしている知事

の取材なのだろう。

 神崎は興味ないとでも言いたげに冷たく視線を戻すと、遠く正面に阪急のビルが見えた。信号が青に

変わりアクセルを一気に踏み込と図太いエキゾーストが内臓に響き渡って尿意を催した。   

 部屋に戻ると熱いシャワーを浴びて、全身をボディーソープで洗い流す。険しく隆起した浅黒い肌が

水々しく湯を弾く。

 腰にバスタオルを巻くと、殺風景なキッチンで濃い目のバーソンソーダを作り、サンドイッチと一緒

に胃に放り込む。かなりボリュームのあるサンドイッチだが、あっと言う間に平らげた。

 人心地ついたところで食後の一本を吸い終えると、軽い眠気が刺してきた。時刻は11時20分。ま

だ零時前ゆえこのまま寝ていいものか少し躊躇したが、戦場心得を思い出す。食える時には食っておけ、

洗える時には洗っておけ、眠れる時には眠っておけ...。

 よって、少し早いが眠ることにする。



 翌朝、いつもの時間にアラームで起こされると、多少疲れているのか体が糖分を欲しがっているのを

感じた。朝食は目玉焼き三個、ボイルした骨付きソーセージ三本、トマト一個、それにトーストした食

パン2枚とした。食パンにはメイプルシロップを裏面まで染み込むほど塗った。一口囓ってあまりの甘

さに顔をしかめたが、目玉焼きやソーセージを交互に口にしながら無理矢理胃に放り込む。丸のままの

トマトを素手でかじって口中をさっぱりさせると、最後はブラックで締めた。

 三分も掛けずに手早く冷水のシャワーを浴び終え、くわえ煙草で洗った髪をセットする。短目の髪な

のでドライヤーは要らず、ムースを少量手に取ると手櫛で後ろに流した。煙草の煙に目を細めながら数

回手櫛を入れると、前髪が男っぽく立ち上がる。

 全身から匂い立つ男の色香を紺のスーツで包み込むと、ドアに小細工してオフィスに向かった。



 オフィスでは先着の同僚がスポーツ紙を広げながら、プロ野球のペナントレースについて熱っぽく語

っている。神崎はその輪に加わらず、九時を待たずに仕事を始めた。

「ご熱心だねえ」

 背中に揶揄が飛ぶと、振り向きはせずに左手だけを挙げて受け流す。

 一般職の女性社員がコーヒーを運んできた。

「いつもありがとう」

 女性を夢見心地にさせずにはいられない笑顔で礼を言うと、彼女はお盆を膝に当てて俯いてしまった。

 苦痛とも言える報告書の作成作業だが、集中して行うと時計の針もそれなりに早く進んだ。

 昼食時、差し障りのない会話で同僚と共に鰻重を食べ終えると、コーヒーショップには付き合わず一

人公園を散歩した。

 噴水の横のベンチに腰掛けると、横では昼休みのOLたちがバレーボールに興じている。

「平和なもんだな...」

 煙草の煙を吐き出しながら、誰に言うともなしに呟いた。

 嬌声を上げながら楽しそうにボールを追う女性たちを眺めていると、自分がとんでもなく場違いな世

界にいるような気がした。なぜだか硝煙の匂いと共に戦場での様々な記憶が走馬燈のように甦って、噴

水の波紋の中にオーバーラップした。

 神崎の足元にボールが転がってきた。どれくらいそうしていたのだろうか、我に返って立ち上がる。

「すいませ〜ん」

 そんな女性の声を無視して、足元のボールもそのままに立ち去る神崎の背中はどこか寂し気だった。



 オフィスに戻ると二時間ほどで書類は完成した。神崎の勤める監査法人はフレックスタイム制なので、

コアタイムの過ぎた十五時でとっととオフィスを出る。退室時、背中にかなりの視線が突き刺さったが、

そんなものは気にしない。

 まっすぐ部屋に戻り留守電をチェックすると、高田麗香の声があった。

「一昨日はどうもありがとうございました。あの、私、随分と眠ってしまったようで、ごめんなさい...

ちょっと呆れたかしら?また会って下さると嬉しいのだけど...」

 言葉を無くしたのか、そこからは無言で切れた。育ちの良い背筋を伸ばしたような声は相変わらずだが、

気恥ずかしさと不安が滲み出ている。今すぐ携帯に電話してそれらを取り除いてやっても良かったが、

そうはせずリュックにトレーニングウェアを詰め込むと、メールボックスをチェックしてからジムに向かう。

新着メールが八通ほどあったが、その中に武器屋のアディシンからのものはなかった。



 木曜は後背筋と上腕二頭筋のトレーニング日だ。

 受付ではいつもの二人が待ってましたと言わんばかりの笑顔で神崎を迎える。デートに誘われた時のやん

わりとした断り文句まで既に用意してあるが、二人だとお互いに誘いずらいのか、今夜も燃えるような視線

を感じるだけで無事受付を通過した。

 会社帰りの連中とかち合ってロッカールームは混雑していた。彼らをやり過ごそうとリラクゼーションル

ームで腹ごなしにプロテイン飲料を飲み、リクライニングシートで横になりながらマガジンラックにあった

週刊誌に目を通す。

 甘ったるく流れる軽音楽が眠気を誘ったのか、気が付けば少し眠っていたようだ。外人部隊時代にはコツ

ゴツした石を背中に感じながら眠ったこともあれば、蛭のうごめく生温い川の中で一夜を明かしたこともあ

る。日本に帰国して随分慣れてしまったとはいえ、ベットやこのようなシートの上は神崎にとってまさに天

国と言えた。何より南京虫やら得体の知れない昆虫にそわそわと肌を這われて眠りを邪魔されることがない

のがいい。平穏な環境と睡眠時間はどうやら比例するようだ。

 ロッカールームに戻ると、前回見かけた御曹司風の青年とすれ違った。彼はまるでやくざの大親分でも避

けるように、やもりのような格好で体を壁に張り付けて神崎をやり過ごした。神崎は何か言いたげにちょっ

と立ち止まったが、気が変わったのかまた歩き出す。御曹司風の青年はホッとしたような、そして、ちょっ

とがっかりしたような表情を見せた。

 来た時のロッカールームの喧噪とは裏腹にジムは空いていた。月会費10万超のジムが誇る豪華な風呂の

施設を目当てに通っている者も多いのだ。平日の昼間、仕事をさぼって神崎も風呂やサウナをたまに利用する。

 血圧と体重を量り終えると、タッチパネルに会員ナンバーとそれらの数値を入力する。

 先ず最初はいつものように三十分かけてランニングマシンで体をウオームアップした。最後のダッシュを

終えてマシンを降りても肩で息をするようなことはなく、ほんの少し呼吸が乱れる程度だ。息を吸い込む度

に大胸筋がボリュームアップして、Tシャツの胸部がはち切れそうになる。

 マット床に上がり入念にストレッチをほどこすと、後背筋のトレーニングはマシンを使ったビハインドネ

ックからスタートする。メニューの順番は特に固定されておらず、一週ごとのローテーションで四種目の中

から三種選ぶのが神崎のスタイルだ。

 ビハインドネックの重量を100ポンドにセットすると、目を閉じて背筋を意識しながらウオームアップ

セットを12レップス行う。更に210ポンドにセットして12レップスクリアすると、次は280ポンド

にセットする。チーティングなしのストリクトスタイルならば並の男ではぴくりとも動かない重量だ。呼吸

を整えると奥歯を噛みしめ、バンザイの格好に挙げた両腕を掌を上にしたまま両脇を閉めるようにして下げ

ていく。すさまじい重力に抵抗しようと後背筋が膨張し、280ポンドに重ねられたプレートが宙に浮く。

とたんに汗の粒が額に浮いた。レップを重ねるごとに神崎の気迫がフロア中に伝わり、遠めに近めに誰もが

視線を送る。

 10レップスを終えていったんマシンから離れると、立ち眩みに似た疲労が神崎を襲う。タオルで汗を拭

いながら一分きっちり休憩すると再び280ポンドで10レップス。今日は躰の調子がいいのか、いつもよ

り軽く感じられたので、3回目のセットは290ポンドで行った。セットを終了したときには、インストラ

クターが軽い拍手を送った。それにつられて数人の女性も拍手を送る。神崎は片頬を緩ませてそれらに応え

ると、無料のスポーツドリンクで一杯飲み、休憩代わりにシットアップを100回行った。

 次はバーベルロウだ。腰に重度の負担がかかる種目なので皮ベルトを巻く。神崎がフリーウエイトのスペ

ースに進むと、男性インストラクターの一人が補助に当たるため小走りに寄ってくる。月会費10万超の面

目躍如といったところか。

「最初は140ポンドにセットしてくれ」

 面倒なセッティングは任せて、疲労した後背筋を丹念にほぐす。筋群がかなり熱を帯びてきたようで、軽

いストレッチ運動でもひっきりなしに汗が浮く。

「神崎様、できました」

 その笑顔と律儀に刈り込まれた短髪はどこかホテルマンを連想させた。

「君は確か藤枝君だったな?」

「はい、そうです」

 若い男性のインストラクターは胸の名札を少し突き出し気味にして答えた。

「俺が以前から要望している件はどうなってる?」

「サンドバックを設置するという件ですね」

「そうだ」

「それなら前回の議題に上がりまして、支配人も前向きに検討させて頂きますとのことでした」

「そうか、それならいい。忘れてるんじゃないかと思ってな」

「滅相もございません」

「インストラクターに誰か格闘技の有段者はいるか?」

「それでしたら、水野主任が正心会の三段ですが。」

「ここでスパーリングの相手をしてもらえるかな?」

「レッスンがなければダンスフロアで可能かと。ただし、支配人に聞いてみないと何とも言えませんが。

グラブも必要でしょうし」

「それなら一度話を通しておいてくれ」

「承知しました」

「頼む。じゃあ始めるぞ」

 週に一度ほど顔を出していたキックボクシングのジムにもここのところ満足に通えず、ここで練習でき

れば神崎にとっても都合が良かった。除隊以来命を危険に晒すこともなくのんびり生活してきたが、これ

からはそうもいくまい。そのためにもコンディションを常にベストに保っておきたかった。

 バーベルの前に立つと膝を緩めた。腰を曲げて床に置かれたバーを掴むと、その体躯にしては小さく整

ったヒップを突き出す格好になる。その姿勢を維持しつつ両腕でバーベルを胸近くまで挙げるのがバーベ

ルロウだ。

 ウオームアップセットを終えると240ポンドのセッティングを命じた。神崎は手伝わずに、ストレッ

チで後背筋を伸ばし続ける。トレーニング中のまめなストレッチにより乳酸菌を抑え、疲労をできるだけ

遅らせるのだ。

 240ポンドを12レップスクリアすると次からが本番で、340ポンドを8レップスで3セット行う。

この重量になるとセッティングだけでも一苦労なので、神崎も手伝ってやった。バーの両端に更にウエイ

トがセットされ、素人目にもそれが半端な重量でないことが分かる程に厚みを帯びる。

「凄いわ、あんなの挙げるのかしら!?」

 ちょっと低音で、妙齢を思わせる女性の呟き声が耳に入った。神崎が振り向くと私服の女性がインスト

ラクターに連れ添われて立っていた。入会前の見学なのだろう、神崎と目が合うと女は気が強そうな顔立

ちとは裏腹に軽く会釈した。神崎もトレーニングで鋭くなった瞳を幾分和らげてそれに応えた。再びセッ

ティングに取り掛かっても、女の視線がまとわりついているのが感じられる。見据えても目を逸らそうと

はしない。大胆な女だな、と思った。あなたに気がありますと公言しているようなものだ。こうなれば神

崎も遠慮はしない。ゆっくりと愛撫するように全身に視線を這わせてやった。何か感じるものがあったの

か、女が一歩後ずさった。インストラクターがバツ悪そうな表情で、あさっての方向に落ち着かない視線

を向ける。シャネルの黒のスーツから伸びた脚は骨ばったところもなく女性的なラインで、足首に巻かれ

た金のアンクレットが生々しい。黒の網タイツはストッキングではなく、ガーターベルトで吊っているの

だろう。軽くウエーブ掛かった艶のある黒髪が豊かに垂れ、ダイヤなのか何なのか多面体の飾りが耳元で

ミラーボールのように照明に反射している。健康的なスポーツクラブとはおおよそ不釣り合いなほどの真

っ赤なマニキュアが長爪に塗られ、女が腕を組み替えると巻き付いたブレスレットの束が小銭をバラまい

たような音をたてて触れ合った。以外にも化粧は薄いが、少しめくれあがり気味のぷっくらとした唇には

水気のある桃紅色のルージュが艶っぽく輝いている。

 君に振り回される男はさぞや多いだろうが俺はそうはいかないよ、神崎はそう言いたげに視線をバーベ

ルに戻した。

「さあ、やろうか」

 知らん顔していたイストラクターが初めて気付いたように、はいと言った。

 ウオームアップセットとは異なり、神崎もすぐにはバーを握らない。目を閉じる。背筋をきっちり伸ば

して複式呼吸で精神を統一し、丹田に力を蓄えていく。ここだけ見ればウエイトトレーニングというより

も、禅の修行といった感じだ。神崎の思考から雑念が取り払われ、340ポンドの重力に逆らうだけの精

神的エネルギーが充電されれば準備OKとなる。何かのスイッチが入ったように瞼を開くと、膝と腰を曲

げてバーを握りしめる。

「ぐっ...」

 挙がった。それは見事に挙がった。胸の位置で静止させる。後背筋が大きく膨れ上がり、Tシャツを引

き裂こうとする。重力に逆らっているのは何も後背筋だけではない。バーベルを落とすまいと牛乳瓶を握

り潰せる程の握力がバーに加わり、それに伴って上腕筋や前腕筋も肥大化する。筋群の膨張により、絞り

出すような汗の粒が浅黒い肌に無数に浮いた。その迫力にインストラクターまでが奥歯を噛みしめては拳

を堅く握る。

 次のステップではトップまで持ち上げたバーベルをゆっくりとクッション施されたマットに降ろす。降

ろすといっても投げ捨てるわけではなく、重力をコントロールしながらの動作なので、持ち上げるのと変

わらない程のパワーを消費する。バーベルがクッションに付き、その重力から解放されると1レップだ。

 神崎は8レップスで1セットとし、合計3セット24レップス行った。さすがに最期の1レップを終え

たときは、フロアに倒れ込んで大きく肩で息をついた。少々だらしなくはあるが、これくらい追い込まな

いとトレーニングの効果は見込めない。

 流れ落ちる汗もそのままに二分ほど横たわると、強烈な後背筋の痛みも徐々に和らいでいく。それと共

に失われた背中の皮膚感覚も回復し、マットとの接点にナメクジを踏んだような感触を覚えた。

 頬に何か冷たいものが当てられた。目を開ける。さっきの女だ。小悪魔のように悪戯っぽく微笑みなが

ら神崎の頬にスポーツドリンクの缶を押し当てている。目の前にある腿の隙間から牝の匂いが漂ってくる

ような気がした。神崎は上体を起こして缶をひったくると喉仏を大きく揺らして一気に飲み干す。

空き缶を女の胸の谷間に突っ込むと礼も言わずに立ち去った。

 シットアップしながら後背筋の回復を待つ。

 シットアップ、つまり腹筋運動もウエイトを足さない限り神崎にとっては負荷ゼロに等しい。数は数え

ずに五分間続けて休憩とした。

 シットアップベンチを離れると、後背筋最後の種目であるチンニングに移る。チンニングとは握りを反

対にした懸垂のことで、腕ではなく上背部の筋肉の力で体を待ち上げる。チンニングを一種目に行うとき

は腰にウエイトを吊るが、今日は最後の種目なので自分の体重のみを負荷とする。1セットを20レップ

スとし、計5セットの100レップス行った。セットの合間にはレッグプレスを織り交ぜる。

 熱いジャクシーに一刻も早く浸りたい誘惑に駆られるが、更に二種目をこなして上腕二頭筋をヒットさ

せた。最後はいつものように入念なストレッチで強ばった筋群を入念にほぐす。時計を見る。延べ90分

のトレーニングだった。



 トレーニング後に肉気が欲しくなるのは毎度のことだ。そろそろ冬物のジャンパーが恋しくなるような

秋の夜風を感じながら桜橋まで歩くと、南大門という焼き肉屋に入った。飛びきり上質の肉を出すことで

関西一円に知られた店だが、その評判に見合う値段もあって並ばされることなくすんなりテーブルに着い

た。店内を見渡せる奥隅のテーブルが良かったがふさがっていたので、仕方なく奥から三番目の席だ。見

渡すとぼちぼち白髪が目立ち始めた年代のサラリーマン層でそれなりに賑わっており、あちこちのテーブ

ルからはダクトの吸引も空しく炭火に落ちた脂の煙がスモッグのように漂ってくる。

 神崎はまず好物である生レバーとユッケを三人前ずつと生ビールを頼んだ。壁に貼られた生ビールのポ

スターに映るキャンペーンガールのくっきりしたキツネ目が、どこかしらさっきのジムの女を思い出させる。

 ほどなくして出された生ビールは神崎の好みほどには冷えていなかったが、それでもトレーニング後の

水分が枯渇した躰には染み渡るほど旨い。一気に飲み干すと、カロリー計算など無視して二杯目を頼む。

 大皿で出された生レバーにはぬめり気を帯びた赤黒い血がオイルのように滴っていたが、まるで肉食獣

が獲物を食い漁るように唇を血で濡らしながら次々と胃に放り込んでいく。新鮮なレバーを噛んで下すと

パワーが充電されるのをはっきりと感じる。

 続いて一皿ずつ出されたユッケも黄身とタレを混ぜ合わせて食った。空になった皿が次々にテーブルの

隅に重ねられた。

 ウエイターを呼ぶと今度はテッチャン3人前だ。新鮮な内蔵なのでたっぷりのおろしにんにく、七味、

ネギ、タレをまぶすと、焼かずにそのまま生で噛み砕いて胃に放り込んだ。時折生ビールを口にしては食

道にひっかかった臓物を洗い流す。

 横のテーブルにいる中年サラリーマン三人組が呆れたような視線を神崎に送っていたが、鋭い一瞥をく

れてやると視線をそらせてまた何かぼそぼそ喋り始めた。

 臓物を平らげると、次はカルビと塩タン二人前ずつを軽く炙っただけの生に近い状態で食った。最高に

旨い。これなら多少の金額も惜しくはない。

 最後にクッパかビビンバのご飯物で締めたかったが、前回のように二十分も待たされてはたまらないの

で我慢することにした。

 煙草を二本灰にしながら胃を落ち着かせると、塩タン用に出されたレモンを囓りながらレジで勘定を済

ませた。釣り銭と一緒に口臭予防のガムをくれたので口に放り込み、腹ごなしを兼ね歩いて部屋に戻る。

夜気は更に冷たさを増しており、神崎は両手をポケットに突っ込んだ。

 十分ほど歩くとマンション前に通じる通りへ出た。中津はオフィス街といってもいいが、梅田とは目と

鼻の先なので夜になってもそれなりの賑わいを残しており、通りぱっと見渡しだだけでも飲食店のネオン

サインが数件目に入る。

 くわえていた煙草を中指で弾き飛ばすと、道路の真ん中あたりまで転がっていった。それが通り掛かっ

た車に踏みつけられるのをなんとなく見届けて視線を前に戻したとき、神崎の五感が何かを感じ取った。

具体的に何がどうということではないが、確かに何かが引っかかったのだ。生ビール四杯程度のアルコー

ル摂取で神崎の動物的な戦闘本能が低下することはない。山猫のような俊敏さで軽く跳ねると、既に閉店

した喫茶店の軒先に身を隠した。大きな蕾を付けた鉢植えのサザンカの隙間から前方を凝視する。路肩の

あちこちに車が停めてあるのはいつもと変わらぬ光景だ。梅田に車で遊びに来る連中がよくこの辺りに駐

車するし、神崎の済むマンションを場所柄オフィスとして利用している住人も少なくないので、出入りの

車が夜遅くまで駐車されているのも知っている。しかし、神崎は道路の反対側に停めてある30mほど先

の大型ベンツに目を付けた。幸い神崎の来た方向に尻を向けており、まだ少し距離があるので、こっちの

姿を見られてはいないだろう。ベンツは黒塗りのボディーに窓をシールドで覆っており、金のホイールは

夜の街明かりを吸ってケバく輝いている。素人目に見てもその筋の車だと分かるものだ。

 神崎は路上駐車の車や店舗の軒先の陰などを利用して、バックミラーの視界に注意しながらそっと忍び

寄る。車や人が通り過ぎる度に、何か路上に落としたものを探す振りをした。

 十分ほどかけてベンツの5m後方まで移動した。エンジンは掛かっていない。中がシールドで隠されて

いるので人がいるのかどうかは分からなかったが、神崎の戦闘本能はそれが自分を見張りに来た車であり、

中には確かに誰かがいると確信した。何も知らずに部屋へ戻ると、その十分後には宅急便が届いていたに

違いない。そしてドアを空けた刹那、武装した五、六人の男たちが飛び込んでくるといった段取りか。

 神崎は恐怖というよりも失笑がこみ上げてきた。

「間抜けな奴め...」

 片頬を不敵にねじ曲げてそう呟いた。

 接近したついでにナンバープレートの数字を頭に叩き込んでおく。ポケットのコマンダーで後輪を裂いて

やろうかと思ったが、これではみすみす感づいたことを教えるようなものなので、思い直してベンツから離

れた。

 50m程距離をとると自動販売機の缶コーヒーを飲みながら、一服つける。白い息と共に吐き出した煙が

夜気の中をゆっくりと漂い、煙の向こうにあるネオンサインの輪郭がわずかに滲んだ。

 空になった缶をゴミ箱に投げ捨てようとしたが、途中で手を止めて近づくとそっと入れた。今からとるべ

き行動について選択肢はいくらでもある。それらをまとめる為、さらに一本火をつけた。念のためライター

の火は手で覆って隠す。オレンジ色の火口も決してベンツの方には向けない。

 短くなったセブンスターを靴底で揉み消す頃には一つのプランが出来上がった。

 茶屋町まで引き返すとDパックから携帯を引っぱり出して、ある女の名を探す。

 夜の11時を過ぎており、茶屋町口付近の路肩にはナンパに精を出している若い男たちの車で溢れている。

皆ガードレールに腰掛けては路面に唾を吐き散らし、落ち着きのない目で辺りを見回していた。彼らの視線

を充分に浴びながら、しかし無視して、神崎は携帯を耳に前を通り過ぎていく。

「もしもし、麻里か?俺だ、神崎だ」

「えっ、龍ちゃんなの!?」

 ぱっと蛍光灯が点いたような声で女が答えた。

「全然連絡くれないんだから、もう」

「今夜泊めてくれないか?」

「どうしちゃったのよ、急に?もうちょっと早くに知らせてくれれば気の利いた料理でも用意しておいたのに」

「そんなのいいんだよ。君がいれば十分だ」

「本当かしら?けど、嘘でも騙されてあげる。今何処なの?」

「梅田にいる」

「迎えに行った方がいい?」

「いいさ。タクシーを拾うから」

「じゃあ、早く来てよ、龍ちゃん!!」

「そうだな。すぐ行くよ」

 タクシーはすぐに捕まった。南方と一言告げると、運転手の名前と顔写真を頭に叩き込む。これは神崎

の癖だ。いつもの儀式が終わると、窓枠に肘を掛け、ぼんやりと尾を引いて流れ去る夜の街灯りを眺める。

今夜はきっと寝かせてくれないだろうな。そう思って苦笑する。ほんの僅かの休息時間を無駄にしまいと

目を閉じて全身の力を抜いた。


「着きましたよ」

 どこか遠慮勝ちな運転手の小声で起こされた。10分ほどのドライブだったが、寝てしまったようだ。

わずかな睡眠なので頭は呆けていない。目的地はもう少し先だが、ここからは歩くことにした。

 金を払って車外に出ると、入れ替わるようにしてアルコ−ル臭を漂わせたサラリーマン二人が後部座席

に滑り込んだ。

 終電に遅れまいと早歩きで駅へ向かう人々とすれ違いながら、神崎は宮本麻里の住むマンションへ向か

った。七月に須磨まで肌を焼きに行ったのが最後だから、会うのは二ヶ月振りになる。

 駅周辺に群がる大小様々なオフィスビルや飲食店を抜けると住宅街に出た。閑静とまではいえないが、

駅前の喧噪が嘘のようだ。

 通りをしばらく進むと、この辺りにしてはひときわ高くそびえる25階建てのマンションの前に来た。

ここに麻里が住んでいる。エントランスを抜けると右側は管理人室、左側には各部屋のポストが壁面に

並んでいた。小窓の奥に管理人の姿は見当たらない。正面にガラスの自動扉があるが、オートロック式に

なっていた。暗証番号を入力するためのタッチパネルにある受話器をひったくると、宮本麻里の部屋番号

を押す。番号に自信はなかったが、待ってましたとばかりに

「はい」

と、弾むような麻里の返事が聞こえた。

 部屋からの遠隔操作でオートロックが解除されると、エレベーターフロアで25階のボタンを押す。ま

るで一流ホテルのような上品なチャイムが鳴り、2基のうちの1基の扉が音もなくスライドした。乗り込

むと、普通のマンションのエレベーターの倍ほどのスペースがある。腕を組んで右肩を壁に預け、扉が勝

手に閉まるのを待った。耳が圧迫されなければ、昇っているのかどうか分からないほど静かなエレベータ

ーで、あっと言う間に25階に着いた。再び上品なチャイムが鳴る。ゆっくりと扉がスライドする。

 誰かいる。

 素早く拳を固く握り猫足立ちに重心を移動させると、それは麻里だった。神崎に勢いよく飛びつき、背

中に手を回してしがみついた。挨拶もなく激しいキスの攻撃。神崎も両手をヒップに回し、ショートパン

ツ越しに撫でさすった。下着は履いていないようで、つきたての餅のような感触が指先に伝わる。指先を

立てて尻の割れ目に食い込ませると、生暖かい麻里の吐息が神崎の口中に流れ込んだ。麻里の腰を抱くと、

唇を絡めながら部屋の前まで移動する。麻里が後ろ手にドアを開け、そのまま玄関に雪崩れ込んだ。事の

前にコニャックでも一杯所望したかったが、どうやら靴を脱ぐ暇もなさそうだ。

 ジャケットを剥ぎ取られ、シャツの前ボタンが次々と外されていく。その間も唇は絡まったままだ。シ

ャツが乱暴に開かれると、麻里の唇は神崎の首筋を経て乳首に移った。舌先でこね回すように舐め上げて

は、時折強く引っ張るように吸い付く。それを何度も繰り返し、もう片方の乳首をピンクのマニキュアが

塗られた長爪の先で軽く愛撫する。神崎も目を閉じて、くすぐったいような快感に酔いしれた。しかし、

後ろ手でドアのロックをきっちり掛けておくのは忘れない。麻里がバックルに手を掛けたが、好きなよう

にさせてやる。乳首から唇を話すと膝をついて、神崎の股間の前に顔を持ってきた。顔がピンクに色づい

て、プレゼントの包みを開ける時の子供ような期待と興奮が入り交じった表情をしている。麻里がルージ

ュの剥げ落ちた唇を舌舐めずりしながらズボンをずり下げる。神崎の凶器が半ば硬直し、黒のビキニパン

ツを突き上げていた。

「ああっ、素敵...」

 麻里が溜息を漏らしながらそう言うと、何度も愛おしげに頬ずりした。神崎の凶器は更に膨張し、パン

ツ越しにキスの雨が降る。たちまちパンツが唾液で濡れそぼった。裏筋のシルエットが一層くっきりと浮

かび上がると、麻里はもう我慢できないというように荒っぽくパンツを下げた。猛々しく隆起した凶器を

目の当たりにして立ち眩みでもしたのか、目が虚ろで焦点が定まっていない。

「おい、大丈夫か、麻里?」

 返事もそのままに神崎の腰に手を添えると口を大きく開いてむしゃぶりついてきた。神崎も麻里の両肩

を掴みながら下半身に走る甘い痺れを存分に楽しんだ。



 一時間後、神崎は冷蔵庫からバドワイザーの瓶を掴むと、親指で栓を弾き飛ばして胃に流し込んだ。麻里

は神崎の野獣じみた攻撃をまともに受け続けベットで夢の中にいる。時刻は午前一時半。金曜なのでもう一

日出社しなければならない。スーツがないので、明け方自分のマンションに戻るつもりでいた。サラリーマ

ンという境遇がつくづく嫌になるが、これもあと2,3年の辛抱だと自分に言い聞かせながらバドワイザー

をラッパ飲みで空にした。

 体は疲れを感じているが、気が張って寝付けそうもないのでキャビネットを漁る。半分飲み残したオール

ド・パーが出てきたので、冷蔵庫からバドワイザーとパックの生ハムを出すとチェイサーで飲み続けた。

 オールド・パーの中身が空になる頃には冴えていた頭も鈍り始めた。ベットルームへ戻ると目覚まし時計

を探す。サイドテーブルの上に置いてあったのですぐに見つかった。ベットの上の麻里は顔を枕に突っ込ん

でピクリとも動かない。死んでいるようにも見えるが、剥き出しの尻に触れると暖かい。シーツには麻里の

体液が染み込んで、股間を中心に綺麗な円を描いていた。肩口までシーツを掛けてやると、リビングに移っ

た。姉御肌の麻里には不釣り合いなほどの可愛らしい部屋だ。大型テレビの上にはネズミのキャラクターで

有名なぬいぐるみが男女お揃いで腰掛けており、壁掛け時計も針の先には同じネズミの顔がある。フローリ

ングの床はワックスが効いており、だらしない生活は送っていないようだ。ガラス製のテーブルには灰皿が

置いてある。吸い殻はない。前に来た時はなかったものだ。男が出来たのかも知れないが、別に構わない。

貰えるものさえ貰えればそれでいいのだ。

 目覚ましは6時にセットした。灯りを消し、クッションの効いた牛革のソファに横になる。目を閉じた。

眠る。



 麻里の枕元に書き置きを残して部屋を出たのが朝の6時20分。エントランスを出ると前の道路にタクシ

ーがウインカーを点滅させながら停車していた。電話で配車を頼んだのだ。

 この時間帯はまだ交通量も少なく、中津にはすぐ着いた。あと一時間もすればこうはいかないだろう。

 マンションの前まで行かずに、200mほど手前で降りた。湿り気を含んだ冷たい空気が頬に心地よかっ

た。排気ガスでうす汚れた昼間の空気が嘘のようで、同じ場所とは思えないほどだ。

 路肩に駐車している車の台数は随分と減っており、遠目にも昨夜のベンツは見当たらない。神崎の読み通

り、痺れを切らせて朝までは待てなかったようだ。しかし、まだ安心はできない。神崎は正面のエントラン

スは通らずに、横手にあるスロープでいったん地下駐車場に降りた。U時のところで靴を脱ぐ。固めの靴底

なので反響を恐れたのだ。見張りがいるとは思えないが、確率千分の一に備えるか備えないか、それこそが

まさにプロとアマを分ける境目である。夜気をたっぷり含んだモルタルの冷たい感触が靴下越しに足裏に伝

わった。決して気分がいいものではなかった。防犯用のために据え付けられた常夜灯が隅々まで照らしてい

るので地下といえどもかなり明るい。ボンネットより上に頭が出ないよう身を屈めて、スロープの対角にあ

る階段に進む。幸い、マンションの住人は降りてこなかった。体を屈めたまま、グレイのペンキで塗られた

スチール製扉のノブに手を掛けた。右に捻って軽く引くと、それは開いた。屈んだまま向こう側に進むと扉

を閉め、そこで初めて立った。いつもは駈け上がる階段だが、靴を脱いだまま14階まで静かに登った。角

から通路を覗くが誰もいない。靴を履く。ドアまで進むと隅に仕掛けた銀紙をチェックして中に入った。コ

マンダーのブレードを立て、いつものように各部屋をチェックする。異常なし。張りつめた神経を解くと、

かなり腹が減っているのに気付いた。

 シャワーを浴びた。陰毛にこびり付いた麻里の体液がやけに粘ついた。激しく擦り過ぎたのか、神崎の凶

器が少し赤みかかっている。熱い湯が少し染みた。

 シャワーを浴び終えると暗がりのキッチンで香辛料の詰まったボローニャ・ソーセージとカマンベール・

チーズを囓り、牛乳で流し込んだ。

 食べ終わると暗がりの中でスーツを着込む。望遠鏡で見張られているという可能性を考慮して、明かりを

漏らしたくなかったのだ。

 鞄を一つ用意し、今夜のために必要なものを順に詰め込んだ。最後にガバメントの弾装と安全装置を確認

するとホルスターに差し込み、ブラックレザーのパンツにくるんで鞄の隅に忍ばせた。

 エレベーターに乗ると駐車場のあるB1を押した。腕時計は7時20分。プライベートではデイトナを愛

用しているが、通勤には日本製の地味な時計を巻いている。女性からプレゼントされた彫刻入りのジャガー・

ルクルソも所有しているが、そんな高級時計を巻けば重役やクライアントに喧嘩を売るようなものだと上司

の山下に諭されたのだ。無視してもよかったが、信念をかけて維持を張るようなことでもないので山下の顔

を立てている。

 通勤時間帯なのでエレベーターは途中のフロアで何度も停まる。一階に着く頃には寿司詰め状態で、蒸せ

た空気に息を止めながら厚みのある肩を窮屈にすぼめなければならなかった。

 地階へ降りるエレベーターには三人残った。たまに熱っぽい視線を送ってくる人妻たちがいるものの、近

所付き合いが皆無に近い神崎に見知った顔はなかった。

 地階で扉がスライドすると神崎は彼らに紛れて一番最後にエレベーターを出た。さりげなく新聞を広げて

顔を隠すことを忘れない。横目で地下駐車場の詰め所を盗み見たが小窓から明かりは漏れていない。遅刻な

のか、もともとそうなのか、不定期にこういう時があるが、少なくとも今朝は都合良かった。神崎はシボレ

ーを無視して、そのまま徒歩で表の通りに通じるスロープを上った。

 地上に出ると駅側に背を向けていつもの反対方向に進んだ。適当な場所でタクシーを拾う。軽く手を挙げ

ながら辺りに注意を払ったが、五感には何も引っかからなかった。後部ドアが開くと、二つの鞄をトランク

に仕舞うかと訊かれた。神崎は顔を小さく左右に振って断った。行き先はオフィスだが、装備一式を詰め込

んだ鞄をコインロッカーに預けるため、阪急梅田駅を経由してから向かった。

 オフィスから少し距離をおいた場所でタクシーを降りると御堂筋は既に活気を取り戻している。金曜のた

めか、行き交う人々の会話や表情に張りが感じられた。

 毎朝立ち寄っているコーヒーショップの前は通らずに、オフィスのあるインテリジェントビルのビルの裏

手に回る。一時撤退した彼らだが、オフィスの入り口が見張られている可能性は高い。

 正面玄関を避け重々しい通用口の扉を開けると、そこには警備員の詰め所がある。ガラス戸の向こうには

2人の警備員がいた。眠気覚ましのコーヒーでも飲んでいるのか、それぞれがマグカップを手にしている。

ガラス戸の横手にあるドアが開くと一人の警備員が出てきた。

「どちらの方でしょうか?」

「どうも、ご苦労さまです。マクベイン・ミラーの神崎と言います」

「困りますねえ。ここが出入り禁止だということは一応ご存じかと思いますが...」

 言いぐさは丁寧だが、目は笑っていない。

「実は表のエントランスで女が待ち構えてまして、ちょっとまずい状況なんですよ。こんなところでの口論

など、あまりぞっとするもんじゃありませんしね。女ってのはつくずく難しいもんです。会社まで追いかけ

て来るなんて、全く...」

 両手を挙げ困ってみせると、ウインクでおどけながら最高級ともいえる笑顔を浮かべた。透き通るような

爽やかさだ。毒を抜かれた警備員が、

「そうですか...まあ、その男振りじゃあ女性も放っとかないでしょうな。くれぐれも今回だけですよ」

 と、社員証の提示も求めずに言った。

「どうも、恩に切ります」

 神崎は軽く一礼して、通り過ぎた。いくつかの角を折れると階段室の扉を開けた。正面玄関の華やかさが

嘘のようで、薄暗い空間に空気が冷たく湿気っている。ビジネス鞄を両手で抱えると、神崎は三段飛ばしで

27階まで一気に駆け上がった。

 いつもより三十分早い出社だが、オフィスには勤勉意欲に燃えた会計士たちがコーヒーを啜りながらパソ

コンのモニターを睨み付けていた。

「よう、神崎君。一体どういう風の吹き回しだい?君がこんな時間に出勤するなんて実に珍しいじゃないか」

 読みかけの新聞を閉じて上司の山下が嬉しそうに話しかけてきた。毎朝8時に出社していると同僚から聞

かされていたが、どうやら本当のようだ。オフィスでは神崎の秘められた殺気を敏感に感じ取ってか、気軽

に話しかけてくる同僚は少数だったが、山下は違った。時に小うるさいことがあるものの、人見知りをしな

い明るい性格がどこか憎めないでいた。

「今日の午後、ミカド興業に顔を出そうと思うのですが、昨夜自宅で書類が全部書けなかったもので、ちょ

っと早めに来たというわけです」

 咄嗟に出た嘘であったが、神崎はぬけぬけと言い切った。

「感心、感心。やるときはやらないとな」

「で、山下さん。打ち合わせが終わるのがどうせ4時を過ぎるので、今日はそのまま直帰してもいいですか?」

「ああ、構わん、構わん。コアタイムをクリアーしてれば問題はない。うちはフレックスなんやから。早め

に帰って昨夜の分までゆっくりしろよ」

「どうも」

 神崎は軽く頭を下げた。これで午後からはのんびりできる。

 デスクに着くと、セブンスターを一本灰にしてから、急遽ミカド興業の新規工場における予測間接費計算

報告書の作成に取り掛かった。一応の期限は二週間後だが、中間報告ということにしておけばいい。

 睡眠不足は感じない。集中して三時間ほど費やすと、お世辞にも十分とは言えないもののそれなりの報告

書が出来上がったので、昼食のついでにそのまま向かうことにする。その旨山下に告げてオフィスを出る。

 エレベーターでは地下2階のボタンを押す。このビルの地下一階には床屋やら文房具屋、それに飲食店な

どのテナントが入っており、地下二階と三階が駐車場になっている。念には念を押して正面玄関からは出ず

に、地下駐車場からのスロープを利用するつもりでいた、

 コンクリート打ちっ放しの駐車場には営業用のライトバンが多く見られたが、所々に内外の高級車が停め

てある。羽振りのいい役員連中の所有物だろう。柱の所々では監視カメラがゆっくりと首を振って辺りに睨

みを利かせている。このまま直接スロープを上がれば怪しまれる可能性もあるので、適当なライトバンの横

で、いかにもキーを忘れたといった仕草をオーバーアクションで行った。そして何食わぬ顔をしながらスロ

ープの斜面を大股で歩く。地上まで上がると正面玄関から離れた敷地の隅に出る構造だ。

 スロープの出入り口には遮断機と警備員詰め所があるが、片手を挙げながら軽く会釈して前を通り抜ける

と、警備員もその背中を目で追うことはなかった。


 タクシーを拾いミカド興業のある新大阪まで行くと、駅前のホテルにある四川飯店に入った。あんかけ

五目焼飯と海鮮焼麺を生ビールで流し込むと、急激に睡魔が襲ってくる。勤務時間中のアルコール摂取は

会社規定では御法度だが、神崎にとってはあってないような規則だ。

 食後の一服を吸い終えると、徒歩でミカド興業へ向かう。九月も半ばを迎えたせいか、太陽のぎらつき

も少しは柔らかくなり、ねっとりとした排気ガスの中を時折走る都会の風が心地良い。長い脚をしなやか

に踏み出して歩道を進むと睡魔も徐々に飛んでいった。

 阪急南方方面に歩いて信号を三つ越えると、ミカド興業の自社ビルが角地にある。その社名に似合わず

洗剤やら石鹸などの家庭用品が売り上げの80%を占める会社だが、4年前に出したエコソープやエコシャ

ンプーの商品群が大ヒットを記録し、今ではこうしてターミナル駅前の一等地に白亜10階建ての自社ビ

ルを構えるに至っている。

 正面玄関を抜けて神崎が近づくと、受付嬢はスイッチを押された機械じかけの人形のように立ち上がった。

どこか表情が落ち着かないのは、あながちカウンターの向こうで盗み読みしていた女性週刊誌のせいだけ

ではないだろう。会社の勢いに比例して受付カウンターの女性社員もモデル並に美しい。

「久しぶりだな、森さん。企画開発部の新川さんはいるかな?」

 普通の男性なら物怖じしそうなほどの美貌の女性だが、神崎は気にも留めない調子で声をかけた。

「少々お待ち下さい」

 女性は何か言い足りないような顔だったが、受話器を取ると内線でやりとりする。

「誠に申し訳ございませんが、本日新川は出張で社にはおりません。アポイントメントはお取りでしたで

しょうか?」

「いや」

 受付嬢の顔には不安げな影がさしたが、神崎は内心ほくそ笑んだ。これでとっとと自由になれる。その

ためにアポイントも入れず、急に押し掛けたのだ。

「そうかい、それは仕方がないな。代わりに君をお茶にでも誘うとするか」

「神崎さん、それが本心なら一度でいいから夜のお食事に誘って下さい」

  すねて丸くほっぺたを膨らましながら受付嬢は神崎を恨めしそうに睨み返した。その時、受付の電話が

鳴る。

「電話だよ」

 神崎は笑顔で片手を振ると、射るような彼女の視線を背中に感じながら受付を後にした。



「もしもし、俺だ」

 神崎は宮本麻里に電話を入れた。どうせ夕刻前から昨夜のベンツがマンション前に張り込んでいるだろ

うから、今朝のメモ書きにもう一晩世話になると書いておいたのだ。

「龍ちゃんね、今朝はごめんなさい。私すっかり眠ってたようで...」

「いいんだ、気にするなよ。それより、もうすぐそっちに行けそうだ。待たせちゃいけないと思って早退

したんだよ」

「本当!?嬉しいわ!!」

「本当さ。ワインでも買ってから行くよ。三十分もあれば着くと思う」

「さっき買い物に行ってきたの。夕食は腕によりをかけるわ」

「そいつは楽しみだ]

 神崎は携帯を切るとリカーショップに向かい、シャトーリューセックとワイルドターキーを買い求めた。 


 宮本麻里の住むマンションの最寄り駅は西中島南方だが、JR新大阪駅からでもさほど遠くないので

散歩がてら歩いて行くことにした。ワインの入った袋を抱えているので、オフィス街を抜けるまでは同

僚やクライアント先の社員の目に触れないようにと猫背気みに俯いて歩いたが、住宅街に入るとバネの

効いたステップで伸びやかに地面を蹴った。ネクタイを緩めると精悍さの中にも気怠さが漂い、井戸端

会議中の主婦たちを振り返らせた。

 マンションには五分程で着いた。

 ブザーを鳴らすと「鍵は掛かってないわよ〜」と、奥から麻里の返事が軽やかに聞こえた。

 神崎は素早くドアを引くと、いったん死角に身を隠す。

 呑気に女の部屋のドアを空けたら銃口...不様な最期を演出するのなら、なかなかのシチュエーシ

ョンと言えるが、コンマ数秒の視界には何も不振な影はなかった。

「どうかしたの、龍ちゃん?」

 エプロン姿の麻里が前で手を拭きながら出てきた。艶っぽい紅のル−ジュとキャラクター柄のエプロ

ンはちぐはぐだが、昨夜の長時間のセックスで大量にホルモンが分泌されたのか、内側から匂い立つ色

気がぷんぷんと漂っている。

「ちょっとつまずいたんだよ」

 はにかんでそう言うと、ワインの入った紙袋を渡して靴を脱いだ。

「今夜も来てくれて本当に嬉しいわ。だって、ロクにお話もできなかったんだもの」

「それは俺のせい?」

 神崎が少し意地悪く言うと、麻里が返事の代わりに抱き付いてきたので、抱え上げてキッチンまで運

んでやる。コンロの鍋からはトマトソースの香りが漂っている。

「今夜は何を食べさせてくれるんだ?」

「イタリアンよ、お気に召して?」

「ああ、いいね。パスタなら大盛りにしてくれ」

「チーズもたくさん買っておいたわ」

「じゃあ食前にワインで楽しむとするか」

「食前の楽しみはそれだけ?」

 そう言うと麻里は神崎に擦り寄って股間を撫で上げた。

「またダウンして、俺に独りで夕食を食わせるつもりか?」

「もうっ...」

 昨夜の激しいセックスを思い出したのか、顔を紅に染めて俯いてしまった。

「とりあえず俺は一風呂浴びさせてもらうことにする」

 神崎は麻里をキッチンに残してバスルームに向かう。

 湯は既に張ってある。神崎は広めのバスタブの中でヨガを行なった。鶏のポーズで瞑想を続けるとや

がて額から汗が滴り落ちる。二十分程で、疲れのためにこのところ常に頭の中を漂っていた靄も綺麗さ

っぱり晴れた。腰回りも随分と軽くなった。

 麻里がバスルームのドアを空けて、顔を覗かせた。

「私を放っていつまでお風呂に入っているつもりなのよ、龍ちゃん?私も一緒に入る」

 神崎の目前であられもなく脚を開くとバスタブに入って来た。ぬるま湯が溢れて、排水口に渦を作った。

 結局、その一時間後には、神崎の攻撃を受けてバスルームのタイルにダウンした麻里の姿があった。躰

を拭ってベットまで運んでやる。

 時刻は6時過ぎ。そろそろ小腹が空いてきた頃だ。

 キッチンで冷蔵庫の扉を観音開きに空けると、綺麗に盛られた前菜の皿が置いてある。一人で先に食べ

るには申し訳ないほどの凝った盛り付けなので回復を待ってやることにする。代わりにゴーダチーズを取

ると、真ん中の引き出しから買ってきたワインを出す。コルク抜きはすぐに見つかった。キッチンと横続

きになったリビングのTVを点けると、男性アナウンサーが興奮気味に、

「奥さん、沖縄旅行が当たりましたよ〜!!」

と、首に血管を浮かせてまくし立てていた。チャンネルを変えたが、どれも似たようなものだ。

 神崎はNHKのニュースを見ながら、それでも頭の中では別のことを考えながら、ゴーダチーズをかじ

ってはワインを飲んだ。

 7時頃には結局フルボトル一本を空にした。アペリティフとしては十分過ぎる量だ。

 ベットルームへ行き明かりを点けると、麻里がさっきと同じ体勢で横たわっていた。ベットに腰を降ろす

と何度も髪を撫でてやる。

 枕に深々と突っ込んだ顔が振り向いたのはようやく五分後のことだ。

「だから言っただろ...」

 まだ半分夢の中なのか、返事はない。代わりに神崎の掌を握っては夢見るような表情で頬ずりしてきた。

「まったく、やり手の女社長にしては随分と甘えん坊だな、君は」

 呆れるような言い方だが、目は優しげに笑っている。

「あなただけよ...龍ちゃん...、愛してるわ」

「じゃあそろそろ君の手料理で愛情を表現してくれないか?」



「麻里ってこんなに料理が上手かったか?」

 牡蠣のグラタンをスプーンでさらいながら、神崎は世辞ではなくそういった。

「こう見えても結構家庭的でしょ!?」

 嬉しげにそう答えると、神崎のグラスにシャトーリューセックを継ぎ足す。冷えた分だけタンニンの渋

みが強まっていたが、それが牡蠣のほろ苦さに良く合った。

 メインディッシュは酸味の利いたトマトソースのパスタだ。シンプルな一品だが、こってりとした料理

を食べた後なのでこれくらいがちょうどいい。4,5人前まとめて大皿で出されたが、そのほとんどを神

崎が食べた。

 唇に付いたソースを麻里がナプキンで拭いてきた。手で払いそうになったが、思い直して好きにさせて

やる。

「今夜一時に出掛けなくちゃならない」

 神崎は食後の一服に火をつけながらそう言った。

「まあ、そんな時間に一体どうしたっていうのよ。さては別の女のところ?」

「まさか、君で十分だよ。今夜1時30時にブラジル駐在の商社マンからメールが届くようになってるん

だ。投機関係の重要な資料でね。事態が最悪の場合一刻も早く手を打たないと得意先に甚大な損失を与え

ることになる」

「ふ〜ん」

 麻里が納得したのかしてないのか、生返事をした。

 もちろんデマカセだが、別に信用してもらわなくても構わない。純粋な恋人同士でないことは麻里も百

も承知であり、お互いに触れられたくない部分の黙秘権は尊重している。だからこそ、こういう関係が長

い間続いているのだ。

「ねえねえ。それより、アイスクリーム食べない?お手製なのよ」

 賢い女だ、そう思った。
 


 さすがに二日続けてKOダウンしているので夜はすんなりと寝かせてくれた。今は八時過ぎなので五時

間ほど眠れそうだ。麻里に一時に起こすよう頼んだが、あまり当てになりそうもないので、枕元のアラー

ムをセットしておく。

 ベットに横になると万里の寝汗が残っているのかシーツが湿っていた。

 明かりを消し、目を閉じる。キッチンで洗い物をしているのだろう、食器の触れ合う音が聞こえる。そ

う時間が経たないうちに音の輪郭がぼやけて、ゆっくりとフェードアウトしていった。


 目が覚めた。肩を揺すられているようだ。

 薄明かりの中、焦点を合わせると麻里が覗き込んでいた。

「もう一時か?」

 寝起きとは思えない張りのある声で神崎が訊ねた。

「5分前よ、コーヒー入れてあるわ」

 シャワーの代わりに顔だけ洗うとキッチンでブラックを啜り煙草を吹かした。

 二杯飲み干す頃には脳細胞も活性化し始める。胃袋もすっかり落ち着いて戦闘準備は万全だ。今夜、神

崎は黒川組の事務所に銃弾をブチ込むつもりでいた。部屋が見張られている以上二度目のトラブルは必至

だが、カチ込みを偽装すれば暫く嫉妬で若い衆を動かすような悠長なことはしないだろう。それにプラス

して、今夜はちょっとした演習を兼ねることにしている。むしろ、こっちがメインと言ってもいいかもし

れない。都会の生活で鈍化した細胞に渇を入れるのだ。半年前に行ったトレーニングでは米軍の厚木基地

に潜入している。

 神崎はフランス外人部隊在籍中、DINOPUSの一員として様々な特殊技能訓練コースを終了してい

るが、RECONの資格もその一つだ。RECONとは単独あるいは少数のグループで敵陣深くまで潜入

し最新の情報、つまり地形、兵員、装備等を無線、衛生電話、時にはデジタル画像を添えながら逐一司令

部に報告し、より効果的な戦術の立案、指揮に役立てるというものだ。敵が間近に接近しても交戦はせず、

その存在は決して敵の目に触れることがないものの、ひとたび非常事態が発生すれば戦闘能力は一騎千当

に値する。それがRECON隊員だ。その技術をもって、今夜発砲前に組事務所に潜入するつもりでいた。

デスクでも漁って何か面白い発見でもあれば儲けものだ。もちろん今夜捕まれば身も蓋もないが、疲れた

体が糖分を欲するように、今の神崎にはこの手のスリルが明らかに不足していた。いくら腹が膨れようが、

野生の獣が食用の肉では決して満足しないのに似ている。

 昼間のスーツをノータイで着込むと、冷蔵庫からチーズを出して胃に放り込む。夜食代わりだ。胸焼け

予防にミネラルウオーターを飲んだ。

「なるべく早く戻ってきてね。寝ずに待ってるから」

 麻里が玄関先でそう言った。

「緊急の場合は何時になるか分からないぞ。俺のことはいいから寝てろよ」

 麻里が何か言いたそうだったが、神崎はその言葉を待たずに玄関を出た。

 マンション前ではタクシーが拾えそうもないので、南方駅方面に歩くことにする。

 大通りに出ると空車のタクシーが信号に引っかかっていたので後ろのドアをノックした。自動ドアが開

くと、長い脚を窮屈に曲げて乗り込む。

「茶屋町までやってくれ」

 いつもの癖で運転手の顔写真と名前を頭に叩き込むと、眠気が再びこないよう念の為にガムを一枚噛ん

だ。顎を動かしながら目を閉じると、RECONの演習を記憶の引き出しからたぐり寄せる。

「風になれ、カンザキ!!」

「肌で感じろ、カンザキ!!」

「複式呼吸を忘れるな、カンザキ!!」

「心で動け、カンザキ!!」

 そう怒鳴られては教官の蹴りが何度腹に食い込んだことか。

 いつだったか、演習中夜中に距離を稼ごうと明らかなオーバースピードで前進した際、といっても分速

数メーターだが、まんまとブービートラップに引っかかってしまった。寝不足と空腹による体力低下で注

意が散漫になっていたのだろう。その後包囲され、敵に扮した味方の兵士にどれだけ殴られたことか。い

じめではない。それも訓練の内なのだ。前歯が折れ、鼻がひん曲がるまで殴られ続け、このまま死ぬので

はないかと思った夜が今では懐かしい。

 息を殺して敵陣深く潜入したときの心境はヨーガのそれと似ている。自分が人間であることを忘れ、木

になり、石になり、そして風になるのだ。

「カモフラージュを過信するな、カンザキ!!」

「場を乱すな、調和しろ、カンザキ!!」

 たった50mの距離を18時間かけて回り込み、教官の背中をナイフの先で突いた時の彼の驚き様とい

ったらなかった。鬼教官がまるで鬼神でも見るよう両目を見開き、恐れおののいたのを思い出す。

 土っぽい湿った落ち葉の臭い。

 背中に這うまだらの蛇。

 頬にへばり付く蛭。

 じめじめとした足先。

 それら記憶の断片は、女との情事よりも神崎の躰を熱くした。湿っぽいジャングルの空気を鼻先に思い

出しながら、神崎の血液が徐々に熱を帯びていく。

「お客さん、着きましたよ」

 いぶかし気に振り返った運転手の声で、現実の世界に戻された。 


 観光地行きのバスターミナルにあるコインロッカーから荷物を出す。午前0時を過ぎているので、コイ

ンを追加しなければならなかった。

 まずは事の前に服を着替えなければならない。午前一時過ぎとはいえ、梅田のど真ん中なので客待ちの

運転手やら女にありつけなかった若者たちの姿がちらほら見える。公衆トイレを頭の中で探ったが、その

ほとんどはショッピングモールの中にあり、この時間はシャッターが降りていて使えない。

 神崎は仕方なく芝田町にある雑居ビルの階段で着替えることにした。窓の電気は全て消えているので、

誰も階段には来ないだろうが、それでも極力足音を立てないようにした。念のため、四階建ての一番上の

踊り場まで上がることにする。表の通りに面した階段なので街灯りが差し込み、足元を誤るようなことは

ない。

 踊り場でジャケットとワイシャツを脱ぐ。コットンのTシャツ越しに夜気が上半身にしみた。リュック

から黒のトレーナーを出すと素早く着込む。ぴったりとしたサイズなので神崎の逆三角形がよりいっそう

強調された。下半身もブラックレザーのパンツに着替える。靴も黒のリーボックを用意してある。ゴムの

厚底なので雑に歩いても足音は立たない。市販で手に入るモデルガン用のホルスターを肩に吊ると、右脇

の下辺りにコルトガバメントを差し込む。モデルガン用といえども実物を精巧に再現しているので、ジャ

ストサイズだ。立ち上がると、スーツ姿の神崎とは比べものにならない程の攻撃的な姿がそこにあった。

女性を夢見心地にさせる瞳も今は鋭利に釣り上がり、甘い唇の両端も堅く結ばれている。全身黒なので不

気味な凄みさえ漂っているほどだ。黒のフェイスマスクと皮手袋もリュックにあるが、着けるに

はまだ早い。

 再びビジネススーツの上だけ羽織ると、ファッションとしては多少ちぐはぐだが、スタイルの良さゆえ

まったく違和感はない。むしろ、よく似合っていると言える程だ。

 履いてきたズボンをリュックに納めると、中一階の踊り場まで降りて通りを見下ろす。二十mほど先に

あるシャッターの降りた店の軒先で男が二人座って話し込んでいるようだが、神崎は問題なしと判断して

通りに出た。

 多少遠回りになるが、なるべく人とすれ違わないような道を選んで黒川組の事務所がある通りへ向かっ

た。午前一時をとうに過ぎているので通りには人影がほとんど見られないものの、新御堂に通じる道路に

出るとそれなりの交通量だ。横断する必要があるので、信号が青になるまでビルの植え込みに隠れて、道

路からの死角に入った。

 信号が青に変わったが、タクシーが一台引っかかったので横断を諦める。

 目撃者もほとんどいない深夜の事件において、警察が真っ先に当たるのは終夜営業のコンビニエンス

ストアとタクシー運転手だ。すらりと脚の伸びた逆三角形の神崎のスタイルはただでさえ人目に付く。

こんな夜中に一人で横断すれば、その記憶に鮮明に残るハメになるのは間違いない。結局、青信号を八

回パスした後にやっと横断できた。

 信号を渡って五十mほど進むと、黒川組の事務所がある通りに出る。ところどころに設置された自動

販売機の明かりを頼りに前方を凝視すると、どうやら人影はなさそうだ。

 先まで行くといきなり通りに出るようなことはせず、顔半分を突き出して様子を伺った。夜のとばり

に人影はないようだが、黒川組の事務所の前だけは水銀灯の明かりのせいで、まるで昼間のようだ。潜

入時に誰かが通れば目撃されるのは必至だが、これは予め予想されたことなので動揺はない。

 車や人が来ないことを祈りつつ、通りに出た。黒川組事務所の窓から明かりは漏れていない。内心胸

を撫で下ろす。もしそうでなければ、演習は延期するつもりでいた。演習で無茶をするなど愚の骨頂だ。

 更に近づくと、一階車庫のシャッターも前回の下見と同様閉じている。事務所の前まで来ると、ごく

自然に後ろを振り向いた。誰もいない。その刹那、組事務所正面にあるビル横の狭いスペースに消え入

るように隠れるといったん腰を屈めたが、水銀灯の明かりを避けるため更に奥まで進んだ。ビルの通用

口があった。軽く手を掛けたが、鍵がかかっているようだ。無音でいきなり扉が開くことはないだろう。

 リュックを下ろして皮の手袋とフェイスマスクを取り出すとジャケットを仕舞い、再び両肩に掛けた。

皮手袋をはめ、フェイスマスクはレザーパンツのポケットに突っ込む。フェイスマスクはビルに潜入し

てからでいい。

 神崎は水銀灯の明かりを正面に浴びながら、そろそろと狭いスペースを戻った。光源をまともに視界

に入れれば目が眩みそうなほどの投光量に舌打ちする。

 通りの左右をチェックした。人影はないが、かすかに女の笑い声が聞こえる。距離がありそうなので

無視する。車のエンジン音も聞こえない。

 「GO、GO、GO!!」

 心の中でそう叫ぶと豹のような敏捷さで通りを横断し、黒川組のビル横にあるスペースに駆け込んだ。

 ビルとビルの間のスペースは幅約一メートル。少し奥まったところに、錆び付いた冷蔵庫の上に自転車

が積んである。奥への進入をブロックしてあるのか、単に放置してあるのか分からないが、とにかく、

上に積んである自転車をどかせる必要がある。重量自体大したことはないが、ペダルが回らぬよう、ハ

ンドルで壁を擦らにようにと、神経を使った。

 両方の壁に手を突っ張って冷蔵庫に乗ると、次はゴミ袋が三つ棄ててあった。薄い青のそれはぷっく

りと膨れており、一番手前のものは一部が破れて中身が飛び出している。ビニールのゴミ袋は触れると

サワサワと音がするのでこれも厄介だ。

「確信犯なら大したもんだな」

 神崎は舌打ちすると冷蔵庫から降り、袋と袋の隙間にゆっくり脚を差し入れて跨いだ。

 奥まで進むと建坪率ぎりぎりに建てられているようで、コンクリートの塀に囲まれた裏手にほとんど

空間はなかった。地面は土のままで、朽ちた缶ビールの空き缶がところどころに転がっている。壁面に

は鋼鉄製のドアが確認できた。見上げると二階から上はビル正面と同じ位置に窓が見える。一階にもガ

ラス窓が一つあるが、明かりは漏れていない。

 神崎は空き缶に触れないようドアに向かった。ゴム底の靴だが、足先には気を使う。ビルの裏面で誰

かが寝ていれば、窓が防音でない限り、ちょっとした物音で簡単に目を覚ます可能性があるからだ。

 鋼鉄製のドアは雑なペンキでグレイに塗られていた。ノブだけがシルバーで、薄明かりの中、鈍い輝

きを放っている。最近付け替えたのかもしれない。ノブを握った。触れた瞬間、非常ベルでも鳴るので

はないかという不安もあったが、それは取り越し苦労だった。黒皮の手袋をはめた指先で軽く回してみ

る。案の定、鍵が掛かっていた。

 神崎は一旦行動を止め、状況分析に取り掛かる。

 ルートは三つ。一つ目は正面から堂々潜入するルート。しかし、そのためには階段を上がらねばなら

ず、更には防犯カメラの回線を切断するかレンズにラッカーを吹き付ける必要がある。そうしないとピ

ッキングしている姿がモニターや防犯ビデオに丸写しだ。仮に無効化したところで、監視モニターに寝

ずの見張りが付いていれば異変に気付くだろうし、表の通行人にも角度によってはその姿を晒すことに

なる。これは論外だ。

 二つ目は側面の壁を屋上までよじ登るルート。裏手に進入路がないことも想定してロープを用意して

あったが、脱出の際に再び降下しなければならず、屋上に登ったら登ったらで更にドアがあるだろうか

ら効率が悪い。やはり三番目のルートである、この裏手のドアから潜入すべきだろう。

 リュックを下ろすとファスナーポケットを開けてピッキングセットをマグライトを取り出す。神崎は

二年程前、日本鍵穴学院という胡散臭い組織に大枚はたいて鍵師としての訓練を受けている。ピッキン

グセットはその時に無理矢理買わされたものだが、以後はホームセンターなどであらゆるタイプの鍵を

購入してはバラしまくった。ブルーのセロファンを三重に貼ったマグライトを点けると、どうやら目の

前のノブにあるシリンダー錠はくの字型の一般的なもので、一分もあれば大丈夫だろう。もしノブを付

け替えたのなら、随分と間抜けな仕事振りだ。

 セットから先端部に小細工された三本の細長い金属棒を取り出すと、すぐには作業に取り掛からず、

目を閉じてしばらく黙想する。何事も焦りは禁物だ。

 風になれ、カンザキ!!

 動と静を肌で感じろ、カンザキ!!

 複式呼吸を忘れるな、カンザキ!!

 心で動け、カンザキ!!

 そして何秒後か、あるいは何分か後、神崎の本能にブルーサインが点ると指先がにわかに動いた。

 指先で微妙な感触を探ると、ものの三十秒でロックが外れた。素早く工具を戻す。ノブに軽く手をかけ

て右にひねり、前後の感触を確かめる。どうやら内開きのようだ。

 まず1cmドアを押してみる...中から反応はない。

 2cm...反応なし。

 3cm...反応なし。

 隙間から中を覗いたが暗くて様子は分からない。漏れてくる冷たい空気から人の気配は感じられない。

 そっとドアを押し続けてみた。繊細さだけではいけない。もちろん、大胆さだけでも。大事なのはそ

のバランスであり、使い分けだ。途中、何かに当たった。わずかな金属音だが、研ぎ澄まされている今

の聴覚ではまるでオーケストラヒットのように感じられた。それ以上無理に押すようなことはせず、神

崎は40cm程のドア隙間から中に滑り込んだ。後ろ手で音を立てないようにドアを閉めると、そこは

真っ暗闇になった。鍵はロックしない。

 神崎はまず閉めたドア周辺に指先を這わせて防犯センサーを探した。ヤクザの事務所が警備会社と契

約しているとは思えないが、万が一ということもある。もし防犯センサーを設置してあれば既にセンタ

ーでは非常警報が鳴っているはずだから、遅くとも十五分以内には警備員が飛んでくるだろう。よって、

即刻撤退する必要がある。肝心な作業なのでかなり念入りに調べたが、それらしき感触はなかった。ミ

ッションは中止しなくて済む。そう思うと心が妙に踊り立った。

 神崎はその場に腰を落とし、目が慣れるのを待った。足裏に伝わる感触はどうやらモルタル床のよう

だ。今夜のような状況では本来なら暗視ゴーグルを装備すべきだが、最終的に頼りになるのは己自身の

能力のみであり、鈍った五感を刺激するという意味においても、今夜はあえて持ってこなかった。長い

間密閉された空間で淀みきった空気が、神崎の顔の皮膚を不快に刺激する。 

 やがてぼんやりとくすんだ輪郭が神崎の視界に浮かび始めた。どうやら物置に利用されているスペー

スのようだ。目が慣れるにしたがって無秩序に置かれた机、椅子、バケツ、ダンボールなどが確認でき

た。広さは二十畳ほどか。神崎はブルーのセロファンで発光部をコートしたマグライトを再び手に取り、

点灯した。場末のストリップ場のような安っぽい光が延びる。振り返り、ドア周辺を照らした。やはり

防犯センサーはない。マグライトを横に180度振った。コンクリート打ちっ放しの壁面には数カ所フ

ックが打ち込まれて電気ケーブルのようなものが垂れている。

「何に使うのか?」

 そう思ったが、今夜のミッションには無関係なのですぐに頭から切り離す。神崎は大まかに部屋全体

を確認すると、瞳孔がすぼまる前にマグライトの灯りを消した。今の灯りで正面の壁の右端にドアが確

認できた。駐車場のスペースにつながっているのだろう。そして右側に階段。床に散乱した物に足を引

っかけないよう注意しながら、階段まで進む。1.5m程の幅があり、屋上まで昇れる雰囲気だ。踊り

場の天井にうっすらと蛍光灯らしきものが見えるが、スイッチは切ってあるようで神崎には都合がいい。
 
階段に足を掛けた時、ポケットの膨らみに気が付いた。ノーメックス製のフェイスマスク、つまりバラ

クラバを突っ込んだままだ。

「チッ...」

 自分を罵るように舌打ちすると、頭に被せた。特殊繊維が静電気のようにチリチリと頬の肉を刺激する。

目の辺りだけがゴーグル状に空いており、まともに顔を見られても後のモンタージュは不可能だ。もちろ

ん、頭部への衝撃を和らげるという効果もある。これで全身カラスのようになった。それにしても手順を

忘れるとは...。少なくともピッキングの作業前には被る必要があった。やはり平和ボケしているのか?

神崎は自問自答したが、今反省したところで仕方がないと悟り、またミッションに集中する。

 踊り場で足を止める。

 二階部分を見上げると、やはりドアがある。向こう側は事務所スペースだろうか。耳を澄ませたが物音

一つ聞こえない。不気味なほど静かだ。二階のドアに近づき、隙間を見る。真っ暗だ。向こう側に明かり

は灯っていない。ノブを見るとロックの閉開は階段側からできるようで、これも神崎には都合がいい。

 各階のドアの隙間を全てチェックした。三階だけ明かりが漏れており、二階、四階は真っ暗だ。ビル正

面の窓は全て暗かったので、少なくとも三階フロアはパーテーションでいくつかに分けられていることに

なる。空き巣ではなく感覚を取り戻すための演習であり、ちょっとした遊び心でもあるので、別に金目の

ものを探す必要はないが、一応は組長室への潜入を最終目標に置いている。明かりが漏れている三階はひ

とまず除外するとして、とりあえずの選択肢は二階か四階になる。二階は事務所スペースであり、同フロ

アの一角に組長室がある。四階は若い衆が寝泊まりするフロアだと睨んだ。

 チンタラ悩んでも仕方がないので、神崎は二階まで降りるとスチール製の扉に耳を当てた。空気がうね

る音以外には何も聞こえない。薄手の革手袋に包まれた指先でノブのつまみを掴んでゆっくりと回す。突

起が引っ込んで、静かな階段室にバネで弾かれたような金属質の音が響いた。予想以上に大きな音で、さ

すがの神崎も一瞬肝を冷やした。念のため、一旦地下に降りた。耳を澄ませる。三階に人がいるのはまず

間違いないが、さっきの音を聞きつけて階段室を覗きに来る様子はない。気が付けば両脇が冷や汗で濡れ

ていた。

「この程度で...」

 オペレーション・アシッド・レイン以来戦場を離れて、いかに長期間ぬるま湯に浸かっていたかを再認

識した。しかしそれも神崎らしい考えであり、暴力団の組事務所に深夜単身乗り込むなど、一般人からす

れば狂気の沙汰だ。

 三分ほど地下室で待機して動きがないことを確認すると、再び二階まで上がった。ノブを回す。微かな

力でドアは開いた。温度差のためか隙間を空気が流れ出る。先は暗く、人の気配もなさそうなので、頭一

つ突っ込める角度までドアを開くと、そこから奥を覗き込んだ。通路の左側が裏に面した窓で、右側には

パーテーションが続いている。窓から差し込む夜の明かりで通路の様子がわずかに分かった。外観が傷ん

で見える割にパーテーションは透けるほど白く、最近内装だけいじくったようだ。奥に三分の二ほど進ん

だ辺りで通路が右にも伸びている。パーテーションにドアらしきものは見当たらない。

 神崎は腰を落としながら通路の折れ目まで進むと、少しだけ頭を出して右奥を覗く。パーテーションが

奥まで続き、突き当たりにビル正面の窓が見える。磨りガラス越しに水銀灯の灯りがはっきりと浮かんで

いる。反対側にも通路があるようで、要するに二階フロアはH字形に通路が延びているわけだ。その一方

の部屋が一階正面の防犯カメラが設置された階段とつながっているのだろう。どこかにエレベーターもあ

るはずだ。

 動作が散漫にならぬよう十秒ほど目を閉じて気合いを入れ直すと、ビルの正面側に向かった。途中、左

右それぞれのパーテーションに対照的にドアがある。近づくと、右手のドアの上部に何やらプレートが付

いている。暗がりの中で目を細めると、「組長室」とはっきり見て取れた。

「BINGO!!」

 そう低く呟くと、唇をわずかに擦って細い口笛を吹いた。思ったより早く目標をクリアしそうだ、神崎

はそう思った。

  組長室のドアに細長く埋め込まれた曇りガラスの向こう側は暗い。ドアに耳を当てても空気のうねりが低

く聞こえるだけだ。反対側のドアにも耳を当てたが、同じく人の気配はない。

 神崎は組長室のドアノブに手を掛けると軽くひねった。途中で引っかかる。ロックされているようだ。こ

れは当然だろう。

 ポケットからマグライトを取り出してノブの鍵穴を照らした。神崎の表情が険しくなった。鍵の差し込み

口がW字型のシリンダー錠だ。これはくの字型に比べて格段に手間がかかる。腕が鈍っていなくとも、開鍵

には最低三十分を要するだろう。しかし、神崎には撤収するつもりなど更々なかった。こういう事態も含め

ての演習なのだ。実践における不確定要素への対応で、プロとアマの差が出るといってもいい。それにこの

程度でいちいち目標を放棄していたのでは話にならない。

 長時間のピッキング作業に入る前に、誰かがやって来た場合に備えて避難スペースを確保しなければなら

ない。裏側の通路は階段室の扉を開ければ丸見えになるのでダメだ。この通路も部屋への入り口があるので

問題外。このフロアに誰か人が来るということは、どちらかの部屋に入るためにやって来たと考えるのが順

当だから、残るはビル正面側の通路しかない。

 正面側の通路まで進むと、角から左右を覗き見た。ベネチアンブラインドは全て引き上げられているので、

ビル正面に設置された毒々しい水銀灯の明かりが差し込み、目を細めなくても奥まで良く見える。右側はパ

ーテーションに沿ってパイプ椅子が並んでいる。三、四脚ごとに重ねられて結構な量だ。そしてキャスター

付きの黒板。奥にはなぜか大型の冷蔵庫がある。左側にはロッカーが並んでいる。ざっと二十人分ほどか。

 神崎は腰を落としたままロッカーの奥まで進むとそこにわずかな死角があるのを確認した。ここに隠れれ

ば、とりあえず発見される確率は低いだろう。足先にかかる体重に注意を払いながら山猫のように反対側の

冷蔵庫の前まで移動した。ドラッグその他怪しげな物が保管されていれば失敬するつもりでいた。観音開き

のドアを開けると、わずかに汗ばんだ躰に冷気が心地良かった。サーモスタッドがカチリと鳴ったが、気に

する程の音量ではない。中には缶ビールがぎっしりと詰まっている。そしてボトルポケットにはバヤリース

が数本。冷凍庫やチルドケース、そして野菜室も調べてみたが、氷とつまみ類があるだけだ。
 
 喉かひどく渇いているのに気が付いた。ハイネケンのグリーン缶を掴みたい衝動に駆られたが、アルコー

ルは注意力を緩慢にするので我慢することにする。代わりにバヤリースを抜いて胸ポケットに忍ばせた。ま

さかジュースの本数まできっちり在庫管理しているということはあるまい。缶が落ちないようにジッパーを

閉じる。

 組長室のドアまで戻るとリュックを下ろして再びピッキングセットを取り出す。すぐに避難できるよう、

ピッキングセットのケースをリュックに仕舞った。音を立てぬよう慎重にバヤリースを空けた。ゆっくりと

喉に流し込む。甘ったるいオレンジの味が口中に広がる。

 神崎は目を閉じるゆっくりとした複式呼吸を行う。深く吸い込む度に大胸筋の質量が倍ほどに膨れ上がった。

そうして充分に精神を集中すると、ピッキングに取り掛かった。


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 そのロックが解除されたのは三十五分後、時刻は既に午前二時を過ぎている。ピッキングの工具をリ

ュックに仕舞うと、指先の感覚を繊細にするため脱いでいた皮手袋を再びはめる。ノブに指を掛けてひ

ねった。それは何のひっかかりもなく、約90度右に回転した。ドアを開けた瞬間に非常ベルでも鳴り

はしないかと、心臓の鼓動が激しくなる。そっと押してみる。動かない。外開きのようだ。今度はそっ

と引いてみる。開いた。徐々にノブを引く。一旦途中で止め、隙間に頭を突っ込んで中の様子を伺う。

暗いので隅々の様子までは分からないが、少なくとも誰かが仮眠しているということはなさそうだ。

  中に入るとドアをロックした。真っ先にペンライトを点けて防犯センサーを探す。それらしきものは

見当たらない。剥製にされた鹿の頭部が部屋の後ろの壁に飾ってあり、トロフィー級の角が大きく天井

に延びている。眼球部に小型カメラが仕掛けられているのではとチェックしたが、これも大丈夫だった。

部屋の広さは三十畳をゆうに越える。いかにもクッションの利きそうなソファが中央に対に置かれ、テ

ーブルには趣味の悪い将棋の駒の卓上ライターと多面カットの重々しい灰皿が見える。足元を照らすと、

どうやらペルシャ絨毯のようだ。左サイドには本棚があり、何やら全集らしきものが多数並んでいる。

本棚に平行して置かれた事務用キャビネットの引き出しに手を書けたが、全て鍵が掛けられていた。深

追いはせずに中身は無視する。

 部屋の右サイドを照らすと窓を覆うようにして絵画が横一列に吊られている。近づいてその内の一枚

を照らしてみると、藤の花の絵だった。黒の絵の具で黒川とサインが書いてある。この事務所の主であ

る黒川某が芸術家を気取って書いたものなのだろう。神崎は興味ないとでも言いたげに視線を逸らすと

部屋の正面を照らした。壁面上部に紋付袴を着た初老の男性の白黒写真が睨みを利かすようにして飾ら

れている。彼が噂に聞く藤田組初代組長である藤田矢野助なのだろう。仁侠の世界を専門とする三流週

刊誌の知識によれば、彼はたった一代で黒川組の上位団体でもある構成員二万五千名の武闘派軍団藤田

組を築き上げた伝説の男だ。戦後の混乱期、大物歌手などの公演を恐怖支配で牛耳って得た金で港湾業、

運送業、建築業などと利潤の幅を広げ、その資金をバックに構成員の物量戦術を以って全国の弱小組織

を次々と飲み込んでいったのだ。と、そういう経歴の割には、どこかしら優しげな顔付きだった。写真

の横には天照大神の神棚があり、遠山三宝の上には御神酒と大福餅が供えられている。それら写真と神

棚の威光を背にして、組長のデスクが偉そうに置かれているというレイアウトだ。

 神崎はデスクの向こう側に回った。一般の事務机とは違い木材を使った重厚なエグゼクティブ・デス

クの右側には色目を統一したサイドボード、左側のラックにはDOS/V式、要するにマックではない

パソコンが置かれている。机の上は几帳面と言えるほどに整理されており、メモとペン、それに二台の

電話が置かれているだけだ。右サイドには大型のアームスタンドが取り付けられている。テプラに印刷

した電話番号がご丁寧に電話機に貼られていたので、神崎はメモを取り出して一応その二台の番号をメ

モしておいた。次にサイドボードの引き出しを順番にチェックしていったが、特に目に止まるようなも

のはなかった。一番下の引き出しだけがロックされている。神崎はしばらく動作を止めて、それを開け

るべきか否か思案した。ピッキングとは開けることのみで閉めることのできない、いわば一方通行の作

業だ。組長室のドアが開いており、更にはデスクまで空いていれば、誰かが侵入したと疑われるのはほ

ぼ間違いない。しかし、ドアだけなら閉め忘れで済むかもしれない。地下一階のドアも閉めることはで

きないが物置部屋と化しているので、組長室のドアが空いていたのを不審に思わなければ気付くのは相

当遅れそうな気もする。

 特に目当ての品があるわけでもなし、神崎は損得を秤にかけて鍵のかかった引き出しは開けないこと

にした。一応これで今夜の目標は半分達成されたことになる。そうなると長居は無用、さっさとビルか

ら撤収だ。そう決定し、ペンライトを消して胸ポケットに入れると部屋から出ようとした。しかし、途

中で脚が止まった。振り返った神崎の視線の先にはパソコンのモニターがあった。





 
 つづく