留守電に三件メッセージが入っていた。全て女からだ。再生すると甘ったるい猫撫で声で、やれ週末

に会いたい、次の連休旅行に行きたい、などと流れてきた。  

  冷水のシャワーで体を流した神崎は、黒のビキニパンツを身につけると、ウオッカの瓶を片手にCD

ラックからショパンの作品集をつまみ上げて寝室に置いてあるプレイヤーにセットした。普段はジャズ

しか聴かない神崎であるが、ピアニストである高田麗香がとりわけショパン専門だと言っていたので、

買い求めておいたのだ。

  部屋は殺風景だ。壁には一枚のポスターもなければ、絵画もない。寝室は10畳ほどだが、そこにあ

るのは大型のベットとサイドテーブルとオーディオセットだけの寒々とした部屋だ。コンクリート打ち

っ放しの壁とフローリングの床が無機質さを一層演出している。

  これは他の部屋も同様で、必要最低限のものしか置かれていない。そんな中にあって、唯一部屋の主

に人間臭さを与えているものが、サイドテーブルに飾られている若くて美しい女の写真だ。名は、神崎

由理香。二つ年下の妹である。大学卒業直後の神崎がフランスに出発する時、空港で会ったきりだ。

今では、その写真とはすっかり変わっているだろう。既に結婚しているかもしれない。軍に在籍中は月

に二、三通の手紙で近況を知ってはいたが、計五年の任期を終えて除隊してからは神崎の方から連絡を取

ることもなく、月日が流れていた。純粋な心の持ち主である妹と会うには余りに人を殺し過ぎていたし、

何より、これから始める計画に彼女を巻き込むことだけは絶対にしたくなかった。

  ウオッカの瓶をラッパ飲みで半分空けた頃、ようやく酔いが回ってきた。ショパンの音律が心地よく

脳に響く。

  枕の下に隠しているコマンダーナイフを確認すると、部屋の明かりを消して眠りについた。



  目覚し時計のデジタル音で起こされたのは朝の7時だ。

  酔いは全く残っていない。

  ベットの上でセブンスターを一本灰にすると、冷水のシャワーで体を叩き起こした。頭と体も丁寧に

洗う。昨夜、ジムでヒットさせた大胸筋と上腕三頭筋が気だるく痛んだが、これはいつものことなので

気にしない。

  バスタオルで頭髪を拭いながらラジオをつける。

  フライパンに低脂肪ベーコン200gと卵五つを割ると、冷蔵庫に有り合わせの野菜で手早くサラダ

を作った。トースト二枚も同時に焼く。

  アナウンサーの伝えるニュースに大したものはなかった。もっとも、特殊部隊で実戦を経験している

神崎には、テロで人々が無残に殺されようが別段驚くには至らない。

  果汁100%のオレンジジュースでそれらを胃に収めた神崎は、食後の一服を終えると、クローゼッ

トに向かった。

  荒々しい隆起をみせる大胸筋と首筋に軽くエゴイストをふると、神秘的な香りが漂った。  

  クリーニング屋のナイロンを引き千切り真っ白のシャツを着ると、紺のスラックスを履く。ネクタイ

は三十本以上の中から紺とグレイのストライプを選んだ。その雰囲気はサラリーマンというよりも青年

実業家といった風だが、時折、鷹のように鋭い視線を放つ精悍な顔立ちは、平凡な社会の住人とは一線

を隔する危険な匂いを放っている。

  ポケットには愛用のコマンダーを忍ばせた。

  入念に歯を磨くと、黒皮のビジネスバックを手に玄関を出る。ドアをロックすると、いつものように

上部の隙間にガムの銀紙を挿んでおく。エレベーターは使わずに、豹のような俊敏さで階段で下まで降

りた。

  ピカピカに磨かれた総ガラス張りのオートロック付きエントランスを出ると、ほんの少しだが朝の冷

気を含んだ風が頬を優しく撫でた。



  通勤ラッシュ時の地下鉄御堂筋線の車内は相変わらず神崎をイライラさせた。スシ詰めの群集から頭

が突き出た神崎は、車内の蒸し暑さのみならず、眼下にうごめく頭髪から漂うトニックの匂いに怒りさ

え覚えていた。若い女性が意味ありげに、神崎の鋼鉄のような腹筋に豊満なバストを押し付けてこよう

が、にこりともしない。愛車のシビィーで会社まで通えればいいのだが、役員以外は車での通勤は禁じ

られており、かといって近くに適当な月極の駐車場もなかった。今予約を入れている会社から徒歩10

分の駐車場も、空くのはいつになるか分からない。

  梅田駅に着くと、どっと人が降りた。

  しかし、それ以上にどっと人が乗り込んできた。

  本町までの二駅、神崎はしかめっ面で目前に垂れる車内吊りの広告を意味もなく眺めた。

  駅に着くと、車内から一気に人が吐き出された。

  公認会計士である神崎が勤務する外資系の監査法人であるマクベイン・ミラーのオフィスは、三番

出口から徒歩5分の場所にある。

  地下通路の階段を上がり外の空気に触れると、例えそれが車の排ガスで濁った生ぬるいものであれ、

やっと人心地ついた。

  いつものように、香ばしいコーヒー豆の香を漂わせているチェーン店に入ったのが8時30分。それ

から約20分、神崎はブラックを啜りながら売店で買った一般新聞に目を通した。

  すっかり顔見知りになったレジ係の若い女性に軽くウインクしながら百円玉二枚を手渡すと、

彼女は顔を赤らめ、釣り銭を渡すのも忘れてうつむいてしまった。



  マクベイン・ミラーはそのコーヒーショップの真前にあるインテリジェントビルの27〜30階を占め

ている。27階が受け付け及び来客用の応接室など。28、29階がオフィスと資料室。残る30階が役

員室及び会議室だ。28、29階にはエレベーターは止まらないようになっているので、平社員は受け付

けのある27階で降りなければならない。

  閉まりかけのエレベーターに乗り込むと、他の会社の連中に混じって代表取締役専務の三沢がいた。

「おはようございます」

  神崎からすれば、その醜く出っ張った腹のみをもって軽蔑に値するが、昼間の顔では努めて目立たない

ように人並みの行動を心がけているので、挨拶と共に軽く頭を下げた。

「えーと、君は確か去年入社した神崎君だったね?」

いかにも不健康そうな酒焼けの赤ら顔で三沢が見上げて言った。

「はい、そうです」

「なかなか優秀だと聞いておるよ」

「それは、どうも...」

「君も二次試験を通ってすぐに実務に就いていればよかったのにねえ」

「はあ」

「そりゃそうと、今度ソーヨーの担当に抜擢されたそうじゃないか」

「はい、高瀬主任のアシスタントですが」

「あそこはうちにとって一番大事なクライアントなんだからね、頑張ってくれよ」

「はい」

 チンという上品なベルと共にエレベーターが27階に着いた。

「それでは、失礼します」

「うむ...」

  背を向けた途端、神崎の表情から薄ら笑いが消え失せ、片頬がねじ上がった。

  まだ誰もいない受け付けカウンターを通り過ぎ、タイムカードがある小部屋に行って時刻を打った。

8時55分。いつもの時間だ。


「おはようさん」  

  デスクに着くと、右隣の山下が気さくに挨拶してきた。神崎より三つ年上で五年先輩だ。

「おはようございます」

「おまえ昨日のタイガース見たか?」

「いえ」

「サヨナラ暴投や、ありゃないで」

「はあ」

「はあって、見てへんのか。おまえ一回くらい甲子園一緒に来いよ。どや、明日あたり?」

「すいません、何かと忙しいもので」

「相変わらずなやっちゃなあ。勉強もええけど、少しは遊びもできんと出世できひんでえ」

  社内では勤勉で通っている神崎のその努力は、公認会計士としての将来のためのものだと誰もが

信じて止まなかった。現に神崎は社内にいるとき、昼休をいつも勉強のために資料室で過ごしている。

しかし、手に取る本をよく見れば、全て会社乗っ取りに関連する書物であることは誰も気付かなかった。

やらなければならないことがあまりに多い神崎にとって、昼休みの一時間は実に貴重なのだ。その勤勉

さは就業後の同僚の誘いを断る際にも大いに役に立った。忘年会などの特別な集まりを除いては、実務

講座や英会話学校などを口実に全て断っていた。フランス外人部隊の経験で英語、フランス語共にネイ

ティブと比べても遜色なく話せることなど誰も知らない。昨年受けたTOEICのスコアは980点だ。

もっとも、この会社に神崎の過去を知るものはなく、履歴書の経歴は全くのでたらめを書いて出した。

 システム手帳を開いて予定を確認する。

  午前中は中堅電子機器メーカーの経理部長と会い、午後からは郊外型レストランの本部で経理担当を

相手に簿記の講習を行う予定になっていた。

 出るにはまだ少々時間があったので、仕事をこなす振りをしながら、プライベート関係のスケジュー

リングをチェックし直した。



 淀屋橋にあるハセガワ電子産業の小じんまりとした自社ビル前の喫茶店に着いたのが午前10時30分。

ここで山久商事の社員である蓑田と待ち合わせをしている。山久商事とは先物取引において商品取引員と

呼ばれる会員で、神崎の努めるマクベイン・ミラーの社員が行うヘッジ会計の補助的業務を請け負わせて

いる会社だ。ヘッジ会計とは企業における一種の保険であり、安いコスト、少ない証拠金で、将来の予測

不可能な価格変動による損失を最小限に抑えようというものである。

  神崎が口に合わない安っぽいブラックをすすりながら一本目のセブンスターを灰にした頃、グレイのブ

ランドもののスーツを嫌味に着込んだ蓑田がやって来た。

「やあ、遅れてすまない」

 その言葉とは裏腹に表情はふてぶてしい。

  物腰は柔らかなものの静かな殺気をはらんでいる神崎に対し、男としてのライバル心を一人勝手に燃や

して突っ張っているのだ。女泣かせの顔をしているが、神崎と比べれば締まりがない。右腕にはROLE

Xのデイトナが巻かれている。

  この蓑田という男、取引先との間であまりかんばしくない噂を耳にしているので、この高級時計もその

金の一部だろうと神崎はみていた。この男に騙されて大損した客の苦情を、今をときめく関東黒川組のチ

ンピラを使って黙らせているとの同僚からの情報もある。現に神埼も、新地で蓑田が肩を怒らせた黒スー

ツ姿の男たちと怪しげなベンツに乗り込むのを目撃したことがある。今回の計画のスタートはこの男の暗

い部分を完全に掴むことだ。そのためには女を使う。

「俺もブラック」

 蓑田が趣味の悪いネクタイを直しながら、ウエイトレスに無愛想に言い放った。

「神崎さん、例の資料できてる?」

「ええ、できてます」

 神崎はエクセルで作成した金属の一種であるパラジウム相場の変動グラフを取り出した。本来なら蓑田

の仕事だが、安心な男と思わせるためにやったのだ。ジャブならいくらでも打たせてやる。そのうち強烈

なアッパーカットを顎に叩き込んでやるだけのことだ。そう思いながら、神崎は狭いテーブルに資料を広

げた。

「いいよ、いいよ、俺はもう知ってるし。それより、こないだ行ったキャパクラの女が昨夜俺を寝かさな

かったんだよね。だからもう眠たいわ」

  そうぼやくと、間抜けに大あくびをしては黄茶けた舌を覗かせた。

「やりますねえ、蓑田さんは。夜の方もさぞや凄いんでしょうね」

 さすがの神埼もこの台詞を真顔で言うには相当の困難を要した。 

 午前11時ちょうどに神崎と蓑田はハセガワ電子産業の受け付けに行った。

「こんにちは、マクベイン・ミラーの神崎です」声は低いが目が優しく笑っているので凄みはない。典型

的な神崎の昼の顔だ。

「ようこそいらっしゃいました。お連れ様は、蓑田様ですね?」

「ああ、そうだよ」受け付け嬢が好みでないのか、蓑田は無愛想に答える。

 それから数分後、神崎たちが通された応接室に、内線で連絡を受けた経理担当重役の大田が現れた。会

社の成績に比例して、ゴルフ焼けなのかその肌も黒い。

「まあ、かけて、かけて」かなりの上機嫌だ。パラジウムの相場などインターネットで簡単に知ることが

できるので、今日の報告がどんなものであるか既に知っているのだ。専門家の意見により自信が確信に変

わる心地よい瞬間を迎えているのだ。

「既にご存知かとは思いますが、これがパラジウムの先月の相場変動です」

 そう言うと神崎は先ほど蓑田に見せた右上がりのグラフをテーブルに並べる。

「どうです、部長。私が提案した通りでしょう」ソファにふんぞり返った蓑田が自慢げに言う。

「いやあ、本当だ。君の提案を受け入れて良かったよ」

「部長、もし今売りオペすれば22億の差益ですよ」

「えっ、22億!!そんなに...」経理担当重役ではあるが、しょせん小市民の大田は鼻を膨らませて、

うっすら涙目になった。

「馬鹿め、会社の金だろうが」そう喉から出かかるのを、神崎は茶を一口すすって抑えた。

「そんなに差益が出ているのなら今日決済してもいいんじゃないのか?」

「何言ってるんですか、部長。この相場の移動を見て下さいよ。まだまだ昇り調子で、これからじゃない

ですか。今、売りオペするのはあまりに素人考えですよ。はっ、はっ、はっ」箕田は言い棄てた。

「神崎さんはどう思います?」

「そうですねえ、先物に100%はありませんからねえ...」神崎はぬけぬけ言った。

 その横顔に蓑田が睨みを入れる。

「ちょっと社長の耳に入れておこうか」

 そう言うと大田は社長に内線を通して22億の差益を報告した。時折頭を下げては、はっ、はっ、と恐

縮している。

「社長が話を聞きたいそうだ。じきに来る」

 威厳を保つためか、10分待たして社長の鳥居が応接室に入ってきた。頭のてっぺんが禿げ上がってつ

やつやしているが、年の頃はまだ50代くらいか。スーツはいかにも高そうな玉虫色に輝いている。神崎

は会うのが初めてだ。

「ご無沙汰しております、社長」蓑田が図々しい笑顔で挨拶する。

「うむ、で、どうなんだ?」

「どうなんだと申しますと?」

「今後も相場は順調に上がるのかということだ」声に刺がある。

「そりゃあ、もちろんですとも、社長。今やパラジウムの相場は世界中の先物投資家が注目してますよ。

まあ、それだけ面白みが減ったということも言えるんですがね。ちょっと小耳にはさんだ話では、ロシ

アのお偉いさん方もこの騒動を利用して何か悪さを考えているようでね。まあ、蛇の道は蛇ということ

で、いろんな面白い話が私の耳に入るんですわ」

 ロシアのお偉いさん、すなわちロシアン・マフィアと見て間違いないだろう。それほどまでにペレス

トロイカ後の内政は腐敗している。高官の汚職など当然で、軍の幹部でさえマフィアに武器を払い下げ

ている始末だ。黒川組がロシアン・マフィアと黒い繋がりを持っているのは神崎も知っている。神崎は

その関係を、せいぜい盗難車の密輸入やモスクワでの日本人などに対する売春婦の斡旋程度のものだろ

うと想像していたが、蓑田の話から察するに、かなり大掛かりなもののようだ。黒川組の豊富な資金を

バックに買収したのだろう。それにしても箕田のような雑魚にまでその関係をまともに知られていると

は何ともお粗末な組織ではある。しかしこのハセガワ電子産業という会社、近い将来黒川組とロシアン

・マフィアに喰われるな...神崎はそう読んだ。もちろん、それを黙って見過ごす神崎ではない。利

用できるものは全て利用するのだ。

「黒川組とロシアン・マフィアを割らせて漁夫の利を得るのも一興か...」

  これが成功すれば、当座の作戦資金には不自由すまい。女のサイフと給料をあてにちまちまやってい

たのでは、時間などいくらあっても足りない。予期していなかった展望に、何食わぬ温厚な顔で茶をす

すりつつ内心ほくそ笑んだ。ロシアン・マフィア... 


 神崎と蓑田は社長に昼食を招待されて社用の黒塗りに乗せられた。行き先は中之島の料亭「小竹」

だ。昼の定食でも一人数万はもっていく老舗だが、社長の鳥居は常連らしく仲居と二言三言親しげに

会話を交わしている。腰巾着のようにへばり付いている経理担当重役の大田に促されて個室に入った。

いきなり足を崩して煙草を吸い始める蓑田とは対象的に神崎は下座に正座した。

 それから小一時間、とても昼食とは呼べない老舗の料亭の贅沢三昧の料理を割り引いても、神崎は

実に退屈な時間を過ごさねばならなかった。

「その資金を元に来年あたりはうちも海外に積極的に事業を展開するか」

 そんな上機嫌の社長の話には興味を示さず、時折心地よく響く獅子脅しの音に耳を傾けては、いか

にして黒川組とロシアン・マフィアに割って入るかをあれこれ思案した。

 神崎の野望を露ほども知らない三人は、ビールのほのかな酔いも手伝ってかバカに盛り上がってい

る。霞のかかった障子のガラス越しに中庭を眺める神崎の瞳がやけに鋭さを増していることなど、も

ちろん気付くはずもない。ガラスにうっすらと反射した箕田の横顔を見据えてやはりこの男からだな、

そう決めると、

「さ、さ、箕田さん、どうぞもう一杯」打って変わった愛想笑いでピールを注ぎ足した。



 蓑田たちと別れた神崎は中之島公園で少し胃を落ち着かせてから、地下鉄御堂筋線で郊外型レスト

ランチェーン「パスタ・フェスタ」の本部がある西中島南方に向かった。午後いっぱいは店長相手に

簿記の講習を行うことになっている。

 コンビニエンスストアでミネラルウオーターとブラックの缶コーヒーを買い求めると、中堅企業が

集まるオフィスビルのエレベーターに乗り込み21階のボタンを押した。パスタ・フェスタはそのワ

ンフロアを独占しているのだ。大阪の茨木市に一軒目を出店した初代オーナーはメニューを創意工夫

して、特に低価格の手打ちパスタが若年層に受けたこともあり、今では関西圏で23店舗を数えるま

でに成長している。どこのチェーン店でもありがちだが、店長に経理感覚は不可欠と主張する二代目

が、月に一度各店舗の店長を本部に集め簿記の講習を受けさせているのである。その担当にマクベイ

ン・ミラーを通して神崎が選ばれた。

 定刻の5分前、店長連中が集まる大会議室に入ると賑やかな談笑が花咲いていたが、神崎の姿を認

めると皆ゆっくり着席し始めた。

「皆さん、どうぞご自由に。まだ5分ありますから。一服つけてから始めることにしましょう」

笑顔でそう言うと凶器になりそうなずんぐりとしたガラスの灰皿をたぐり寄せ、缶コーヒーをすすり

ながらセブンスターを一本灰にした。昼食を食べ過ぎたのか、睡魔が襲ってきた。

  ちょっとした考えが浮かび鞄から簿記の学習書を取り出すと、巻末の練習問題のページをコピーし

て皆に配った。

「皆さん、復習はしっかりやってますか?ここらで一度詰め込んだ知識をアウトプットしてもら

いましょうか。ということで、今日はテストにします。点数が低いからといって罰はありませんが、

しっかり頑張って下さい。制限時間は90分とします」

そう言ってテストの始まりを告げると、会議室の奥、皆の背中を見る場所に位置するソファに深々

腰を下ろしアラームをセットした。神崎は図々しくも、そのまま睡魔に任せて目を閉じた。

 90分後、アラームの音で起こされると頬を張ってボケた頭に渇を入れた。少し眠って気分が

すっきりしたのがわかる。

「皆さん、しっかりできましたか?では5分後に解説を行います」そう言うと煙草に火をつけ、

ゆっくり煙を吐きながら頭の冴えを徐々に取り戻した。

 事前に目を通したわけではないが、簿記3級程度の問題解説などには何の苦労もなかった。店長が

業務を離れてまでわざわざ集まった講習に復習テストだけではクレームを受けかねないので、小1時

間ほど割賦販売について講師らしく説明した。

 講義が終わったのが16時40分だ。駅前の本屋で30分程時間を潰すと上司の栗原に直帰する旨

報告した。外資系なのでこのあたりは柔軟なのだ。高田麗香との待ち合わせまで2時間ほどあるので

一旦帰宅することにする。



 西中島から中津までは二駅なのでマンションにはすぐ着いた。

  コマンダーを手に、いつもの手順で室内をチェックし終わると、そこで初めてネクタイを緩めて一

息つく。留守電には2件のメッセージが入っていた。1件は高田麗香からで、今夜予定通りお待ちし

ています、楽しみにしています、と緊張しながらも甘ったるい声が聞こえてきた。それを聞いた神崎

は、今夜彼女を抱くことになるなと直感した。

 シルクの白シャツに麻色のカジュアルスーツをノータイで着込むと、黒のシンプルなデスクの1番

目の引き出しを空けて車のキーを掴んだ。愛車はGMシボレー・コルベット・コンバーチブル。ボデ

ィーカラーはメタリックレッドだ。

 マンションの地下駐車場に降りた神崎は、圧倒的な存在感でたたずむ真紅のシビィーに歩み寄ると、

黒皮のサイフからミラーを取りだし、マグライトの明りを頼りにボディー下を丹念に調べ始めた。仕

掛け爆弾による暗殺など彼らの流儀には反するが、神崎は念には念を入れ、ドアロックを解除する前

に毎回チェックしている。

「All clear」

軍隊時代に叩き込まれた習慣により無意識でそう小さく呟くと、ドアロックを解除して左側の運転座

席に滑り込んだ。キーを挿し込みエンジンを始動させるとV8−DOHC5700ccの図太いエキ

ゾーストサウンドが地下駐車場に鳴り響いた。エンジンはノーマルだが、マフラーだけ無限製のもの

に交換してある。ニュートラルのままアクセルを少し踏むとマフラーから上品な重低音が吐き出され、

エンジンの振動が腹に響いた。一人で走るときにはBGMなど要らない。この心地よいエンジン音こ

そが神崎にとっての最高の音楽なのだ。

 エンジンが充分に暖まった頃、その右手が空を切りトランスアクスル6速MTのギアをニュートラ

ルから1速に入れ、一瞬アクセルを踏み込むと90°ターンでシィビーが飛び出した。重圧

で体がシートに張り付く。再び素早くアクセルを入れると、気違いじみたグッドアイヤータイヤの悲

鳴の後に図太いエキゾーストを残して地下駐車場出入り口にすっ飛んで行った。規則によれば制限時

速は10キロだが、そんなものは完全に無視していた。ウサギ小屋のような地下駐車場管理人室にい

たアルバイトの大学生は漫画雑誌から顔を上げると、怒りとも憧れともつかない眼差しでテールラン

プが尾を引くその後ろ姿を見送った。

 新御堂の交差点は相変わらず混雑していた。停車している神崎の横顔を熱っぽい瞳で通り過ぎる若

い女性も素知らぬ振りで、セブンスターをくゆらしては信号が変わるのを待った。それが青に変わる

コンマ数秒前、神崎はアクセルを一気に踏み込むと強引に交差点を右折した。狂ったようなタクシー

のクラクションが深紅のコルベットの側面に浴びせられたが、あっという間に加速すると、三秒後に

は早くも次の信号に引っ掛かった。左手首に巻かれた貰いもののロレックス・デイトナは7時10分

を指している。待ち合わせにはまだ少し時間があるので、東通り近くにある花屋とナイフ店に立ち寄

り一抱えの花束と砥石を買った。



 午後7時半時。ピアノの生演奏を聞きながら回転扉を抜けると、ヒルトンホテルのロビーはそれな

りの喧騒ぶりだった。辺りに一瞥をくれると、すぐさま外国人の集団の横に高田麗香の姿を認めた。

この鷹のような視力と洞察力をもって戦場では己の命を長らえさせ、また仲間の命を危険に晒すこと

なく事前に救ってきたのだ。しかし、今はその瞳も少しは和らいで見える。

「待たせてしまったようだ」

「いいんです、私が早くに来ただけですから」

 そんな短い会話の最中、神崎は麗香の全身を反射的に、そうと悟られることなく観察した。前回よ

り3cmほどヒールが高くなったブルーの靴、さらに10cmほど丈の短くなった白のミニスカート、

スカートとお揃いの白のジャケットのボタンは全て留められておらず、サテン生地で仕立てられた象

牙色のブラウスは胸元が豊満に盛り上がっている。時計もロレックス製で、それだけでも彼女の経済

力を物語っている。肩下まである黒髪には軽くウエーブがかられており、そのせいか前よりも大人び

て見える。違わないのは香水だけで、すぐにマキシム・ド・パリだと知れた。

「さあ、行こうか」

 そう言って神崎が軽く肘を突き出すと、麗香もそこに腕を絡ませて応えた。二人にしてみれば最初

のスキンシップだが、他人から見れば長年連れ添ったお似合いの二人のように、それは極めて自然に

見えただろう。

「両手に花とはまさにこのことだな」

 男の前では片頬を緩ませるのも稀な神崎も、女性の前では軽妙な会話に軽口も叩く。最も、それら

は純粋な恋愛感情というよりは、ある種のビジネスのようなものだ。

 神崎は麗香をエスコートしながらホテルの駐車場に向かった。冷たい空気の駐車場で「これだよ」

という声がコンクリートの壁に少し反射した。

「これってシボレー・コルベットですよね。私、乗るの初めてです。凄いわ!!」

「フェラーリかランボルギーニなら乗ったことありそうだな」

 危うくそう言い掛けたのを引っ込めて、先に助手席のドアを開いてやった。長い足を少々窮屈そう

にして神崎もドライバーズシートに収まると、持っていた花束をスカートの裾が艶めかしくずり上が

った彼女の膝上に置いた。ドアを閉めると、そのデカい車体とは裏腹に、決して広いとはいえない車

内にラベンダーの放つ甘ったるい香りが広がった。キーをひねってイグニッションを点火すると、エ

ンジンの鼓動が腹に響いた。

「この車に妊婦は乗らない方がいいですね」

「君って、面白いこと言うな」

  カーオーディオ一式は備えられているが、音楽は掛けない。地下駐車場にバスドラムのようなエキ

ゾーストを響かせながら、コルベットをゆっくり移動させた。決して広いとはいえないコーナーでハ

ンドルを目いっぱい切るたびにピレリ製のタイヤが鳥の鳴き声のように軋む。

 JR大阪駅前の喧騒に出ると、スポーツカーには無縁のようなくたびれた中年サラリーマンでさえ、

その深紅の車体を興味ありげに横目で追っては通り過ぎた。

「岡本のイタメシ屋に予約を入れてあるんだ。それでいいな」

 少し高圧的な響きがあるが、彼女にはそれが心地良かった。

 信号が青に変わり、体がシートに張りつくような加速をしたので、「はい」と頷くタイミングを失

ってしまった。

 神崎は二号線をすっ飛ばした。ちょっとした空間を見つけてはアクセルを踏みつけ、強引にパスし

ていった。ジェットコースターさながらの恐怖感に麗香は身を硬くしたが、神崎の横顔を覗いた時、

くわえ煙草で表情一つ動かさずに、まるで誰もいない田舎道を法定速度で運転しているような雰囲気

に、この男なら決して事故もないだろうと、岡本に着く頃にはそのスリルを一緒に楽しんでいた。

 ちょっとした民家を改装したような蔦の絡まった白壁作りの店内に入ると、予約席と書かれた立札

のある隅のテーブルに案内された。椅子は引いてやったものの、神崎はマナーを無視して店内を見渡

せる奥側の席に着いた。三本のキャンドルが灯されると暖かい空気がテーブルに流れ、その陰影が神

崎の顔の彫りをさらに演出した。鋭さを隠せない切れ長の瞳にオレンジ色の灯りが映って、涼しげな

表情に穏やかさが宿った。会話の邪魔にならない音量でカンツォーネが流れ、奥の厨房からはオリー

ブオイルで炒められたガーリックの香りが漂ってくる。この上もなく食欲を刺激する香りだ。

「素敵なお店ですね。よく来るんですか?」

「たまにね」

「また来ようかな。このお店友達に紹介してもいいですか?」

 そんなの勝手にしろ、とは言えない。

「いいよ。ここはパスタも旨いけど、ラザニアが最高なんだ。紹介してあげるといい」

と、微かな笑顔で答えた。

 支配人が、と言ってもフロアはオーナー兼料理長の妻である彼女一人しかいないが、注文を取りに

きたので特上のコースとイタリアワインの最高峰であるソライアをオーダーした。選べるパスタ、ピ

ザ、及びメインディッシュはおすすめを任せた。

 煙草を一服つけ、三曲目のカンツォーネが流れる頃、前菜の盛り合わせとワインが運ばれてきた。

テイスティングを訊ねられたので神崎は頷く。フランスに長くいたのでこの手のマナーはお手のもの

だ。色具合と香りを確かめると、一口含み息を吸い込む。多少下品な音がするが、これはマナー上の

ものだ。

「これはうまいな」

 思わず童顔に戻って呟く。神崎が愛飲しているワインはどちらかといえば庶民派である猫のマーク

がシンボルのカツだが、やはりこういう上物はカツとは別格の味わいがある。ウインクして応えると、

支配人は深々と頭を下げて厨房に戻って行った。

「さあ、どうぞ」

麗香がナプキンでフルワインボトルを包んで傾ける。神崎も注いでやった。無言で軽くグラスを合わ

せると、二人の夜の始まりを告げる鐘の音が鳴った。
 
 前菜の皿から店の名物でもある明石蛸のマリネを口に放り込むと、グラスに残っていた95年物の

ソライアを飲み干した。ソライアは栓を抜いてから一時間ほど置いて味を落ち着かせるというのが通

の間の飲み方だが、神崎は開封後の舌の上で暴れるようなタンニンのワイルドな口当たりの方が好き

だ。グラスを戻すと麗華がすぐに注ぎ足してくれる。彼女のグラスにはまだ半分残っているが、無理

にはすすめない。そもそも、アルコールの力を借りて女性を口説くなど神崎はしない。

 前菜の皿が空き、彼女の頬が薄紅色に染まり始める頃、神崎は会話の端々にプライベートな話題を

折り混ぜて情報を収集した。三人姉妹の末っ子であること、都島に住んで三年になること、一人住ま

いのマンションは4LDKであること、週に一度練習を兼ねて新地のクラブでピアノを弾いているこ

と...。さては、そのクラブでパトロンでも付いたか。そう睨んだが、そんなことおくびにも出さ

ずに、黒胡麻の冷やしスープを口に運ぶ。濃厚なスープでワインがすすんだ。モツェレラチーズとト

マトのサラダの段階でワインが空いてしまったので、ワインリストから今度は彼女に一本選ばせた。

「赤と白、どちらがお好きですか?」

「君の好きなのを頼めばいい」

 そう言って選んだのはイタリア・トスカーナ製のサンタ・クリスティーナだ。神崎には初めてのワ

インだったが、テイスティングなしで飲み始める。辛口で悪くない。

「辛口はお嫌でしたか?」

「そんなことない。これは君のお気に入り?」

「いいえ。普段は甘口が多いいんです。たまには冒険してみようと思って。それに神崎さんは辛口が

お好きでは?」

「どうして辛口が好きだと?」

「だってあなたの顔は甘口好みには見えないもの」

 神崎は笑って応えると、クリスティーナを飲み干した。それに見習い麗香も一気飲みして笑みを浮

かべる。

「俺のペースに合わせるなよ。後で効くぞ」

 ガーリックが薫り立つ秋ナスとトマトソースのパスタが大皿で運ばれると、神崎は旺盛な食欲で胃

に放り込んだ。大皿のパスタがみるみる減っていく。女は自分の分がどんどんなくなっていくのも気

にせず、頼もし気に神崎を眺めた。さらに大皿の海鮮ピザを平らげた後、神崎にミラノ風ビーフカツ

レツ、高田麗華にはスズキの香辛料煮込みが運ばれた。今夜のメインディッシュだ。神崎はクルミ入

りの黒糖パンを追加注文した。このパンとワインだけの昼食をここでとることもあるほどの旨さだ。

いとも簡単にそれらを胃に収めると、麗香に差し出された片面だけになったスズキも食べた。

「凄い食欲ですね。いつもそんなに?」

「夜は長いからな」

 答えになっていないが、女は何思ったのか黙り込んでしまった。

 木苺のムースと抹茶のジェラードには全く手を付けず、デミダスカップの濃いブラックを飲みなが

ら、麗香の仕種を絵画でも鑑賞するように恥ずかし気もなくじっと眺め続けた。麗香は恥ずかしそう

に俯いてムースを口に運ぶ。

 会計を済ませて店を出たのが十時二十分。店の前の専用駐車場で助手席のドアを開けてやるとき、

二十m程離れた植え込みから誰かが顔を出しているのに気付いた。間抜けな奴め、内心毒付いたが、

まだ自分たちが監視されていると決まったわけでもない。とりあえず車で移動しよう、そう決めると

西宮のヨットハーバーへ向かった。

 尾行車の有無を確認するために今度はゆっくりと車を走らせた。その表情に不安の色はない。銃弾

が頬をかすめ、TOWの爆風に吹っ飛ばされたこともあったが、今もこうして生きている。人間、死

ぬ時はあっさり死ぬものだし、いくら注意深く生きようが、ある日突然空から飛行機が落ちてきても

おかしくない時代だ。じたばたしても始まらないし、その時が来ても決して見苦しい姿は晒さない。

そんな考えが神崎の冷静な判断力に一層の磨きをかけた。

  時折ミラーを確認したが、それらしい車は見当たらない。

「考え過ぎか...」

 女を連れているので今夜はそう願いたい。横を見ると、麗華が見返してきた。少し酔いが回ってい

るのか、緊張感のない瞳が誘うように潤んでいる。運転しながら右手でその髪に触れると、瞳を閉じ

て頭を少し傾け神崎の手のひらに重心を預けてきた。微かに熱を帯びた女の肌がマキシム・ド・パリ

のアルコール分を気化させて、車内に甘ったるい匂いが立ちこめた。神崎は唇を奪い、その豊かな胸

を鷲掴みにしたい衝動に駆られたが我慢した。コルベットはカーセックスに困難を要する、ただそれ

だけの理由だ。

 季節外れのヨットハーバーに近づくにつれ対向車も少なくなり、外灯と街路樹だけが規則的に並ぶ

寂しい道路になった。左手には海が広がっているはずだが、今は暗くて目視できない。ただ、海上に

浮かぶ船舶の灯りがその存在を教えている。殺風景な場所なので、遠目に見えるマンション群の窓々

の灯が暖かく感じられた。

 ヨットハーバーからそう遠くない距離にある浜で車を停めた。黒塗りのグロリアがマフラーから下

品な音を立てて横を通り過ぎて行く。それを横目で追いながら神崎は尻ポケットにコマンダーがある

のを確認してキーを抜き、ジャケットのポケットに滑らせた。

  ハイヒールが砂に食い込んで歩きにくそうなので、彼女の腰に手を回してやった。成熟した腰のく

びれは明らかに大人のそれだ。二人は波打ち際まで進んだ。雲はなく、月の光が海面に反射して波紋

のように揺れている。沖合にはイカ釣り船の漁火が見て取れた。ピアニストらしく麗香がベートーベ

ンの月光を微かに口ずさむと、それはしばらく続いた。

「こんなところに浜があるなんて」

「高校の夏休み、夜中にバイクでよく来た場所だ」

 浜辺に散らばっている花火の燃え殻を一つ拾っては、指先で弄びながら答えた。

「女性を連れて?」

「いいや、悪友とさ」

「嘘吐き、そんなはずないわ」

 悪戯っぽく笑った。やはり酔っているのか、ときおり子供じみた仕種を見せる。

「本当さ、これでも結構硬派でね」

「その頃の話を聞かせて」

「別にたいした話なんてないよ」

「何でもいい、聞かせて欲しいの」

 そう言うと神崎の張り出した肩に頭を預けたが、長身の神崎の肩まで届かず、上腕にもたれる感じ

になった。そんな甘えた彼女を横目で見下ろした時、神崎の瞳が一瞬にして凄みを帯びた。砂浜の向

こうからぼんやりした二つの影ががゆっくりと近づいている。神崎は瞬時に状況を悟った。せっかく

のデートを邪魔されたくないという願いはどうやら叶わなかったようだ。

「暇な連中がちょっかいを出しに来たようだ。心配するな、どうせ地元の不良供だろう」

 そんなはずはないが、心配かけまいと嘘をついた。

「えっ、どれ!?」

 その瞳が見開き、声には恐怖の響きが混じっている。酔いも急に飛んだようだ。暴力沙汰とは無縁

の音楽の世界で生きてきたので無理もない。 

「ほら、あれだよ」

 数秒後、彼女はやっとそのシルエットを認めた。

「いいか、君は車の助手席で待ってろ。ドアのロックを忘れるなよ。すぐに笑って迎えに行くから。

さあ、行くんだ」


  女連れの時にちょっかい出すとは不粋な野郎であり、それ相当のツケは払ってもらうことになるだろう。

唇が静かな怒りにねじ曲がり、瞳がぞっとするような冷たい輝きを帯びる。

 シルエットは二人。

  テロ組織「砂漠の狐」の構成員は戦場以外では常に単独行動のはずだが、一人で仕留めるのは危うい

とみて助っ人を呼んだ可能性もある。それほど大事をとるならスナイピングで仕留めれば済むことだが、

彼らの暗殺は陰険で、最大限の苦痛の後にナイフで全身を切り裂くというカルト教団じみた手法を専ら

好んでいる。しかし、神崎にとってはその方が都合良かった。どんな戦闘のプロフェッショナルであれ、

1年365日神経を張りつめてスナイピングの脅威から身を隠すことなど到底不可能なことだ。

 近づくにつれ、神崎は彼らの手に付け足したような長く突き出たシルエットを見定めた。ショットガ

ンだろうか?もしそうであれば、無茶な戦いはしない。例えそれが相手から腰抜けに見えようが、今す

ぐ車まで走ってエンジンをスタートし、さっさと避難すべきだ。戦闘のプロとはそういうものである。

散弾ならこの距離では致命傷にはならないだろうが、いずれにせよ早く見切る必要がある。

 しかし、その影は思った以上に細く、木刀だろうと推定した。日本刀ということもあるが、飛び道具で

なければそれでいい。シルエットからして、どうやら日本人のようだ。



 誰もいない九月の浜辺で彼らは対峙した。

 ゆっくりと息を吐き出しながら精神を集中すると、さざ波の音は神崎の聴覚から消え去り、対峙した

二人の男の口から漏れる息使いだけを感じ取る。右側の男の息は荒く、肩で呼吸をしているのがはっき

り見て取れた。喧嘩馴れしていないか、あるいは、神崎の不敵なシルエットに気後れしているのだろう。

それに比べて左側の男は呼吸を乱さず、どこか余裕めいたものさえ感じる。場数を踏んでいる、というこ

ともあるだろうが、スーツの右脇下が若干膨らんで見えるのが気になる。銃の膨らみであれば、その余裕

も至極当然だ。

  神崎は彼らから視線を外すことなく胸ポケットから煙草を探り出して火をつける。物静かだが、冷たい

怒りを含んだ神崎の表情がライターの火に浮かんでは消えた。吐き出した煙がゆっくりと流れて夜の闇に

消えていく。その静かな動作とは裏腹に神崎の頭脳はフル回転し、完璧な戦闘プログラムを組み立てる。

「おまえ、なに余裕かましとんねんっ!!」

 格下らしい右側の男が吠えながら一歩間合いを詰めた。凄みのある低音を無理してしぼり出したのか、

どこかすっとんきょうに聞こえた。

  神崎は表情を変えずに、両肩だけを軽くゆすって笑った。

  男は髪を金に染めており、ジーンズに横須賀ジャンといった出で立ちで、両胸の部分に口から火を吹い

た龍の刺しゅうがある。腰を落とし、鉄パイプを斜に構えてはいるものの、その雰囲気に青臭さは隠せない。

 神崎はその吠えを黙殺してボス格の男に視線を流した。オールバックに撫でつけられた髪型は今時古風で、

夜だというのにサングラスをかけている。高級そうな仕立てのスーツだが、少し寸胴気味でスマートに着こ

なしているとは言い難い。雰囲気からして、どこかの組の若手売出し中といったところか。モテるとしたら、

せいぜいホステスくらいのものだろう。最も、財布が膨らんでいればの話だが。やはり右脇下が膨らんで見

える。間違いなく銃だろう。抜くまでにできるだけ間合いを詰める必要がある。

「おい、お前」

  神崎の声に凄みはなく、どこかしら楽しんでいるような響きも混じっていた。

「女に不自由しそうなファッションセンスだな」

 距離約4m。男の頬が一瞬ヒクつくのが分かった。

「おい、シンジ。焼き入れたれ」

 図星だったのかどうか、とにかく男は挑発に乗った。

 フェイズワン、OK。神崎が頭で呟く。

  シンジが鉄パイプを上段に構えると、一歩踏み出てきた。

  神崎は煙草を吹き捨てると、空手でいうところの猫足立ちになり右足を半歩踏み込んだ。シンジが鉄

パイプを頭上に振りかぶったその時、神崎は拳を腰だめにして膝を折ると、バネの力を下半身に蓄える。

  バネの力を一点に集中させるため、後ろ脚の踵は軽く浮かせる。

  フェイズトゥー・レディ。跳ねた。

  助走なしの跳躍で三m程跳ね飛ぶとボス格の男の前に着地した。

  男が慌てて鉄パイプを振りかざすが、もう遅過ぎる。

  神崎はかがみ込みの姿勢から突き上げるようにしてビルジーを入れた。ビルジーとは目潰しであり、

ルール無用の実戦では極めて有効な技だ。左指三本を立て、中指を鼻筋に沿うようにして突き上げると、

サングラスがすっ飛んで人差し指と薬指が眼孔にめり込む。貫手の修練も十分に積んであるので、男も

たまったものではないだろう。

  目標を失った鉄パイプが砂にめり込み、安物のホラー映画で聞かれるような絶叫が浜に響いた。戦場

ならば更に指をめり込ませて眼球をえぐるのだが、治療の余地を残す程度に力を抜いてやった。

  その手を素早く脇の下に差し入れると、そこには案の定懐かしい感触があった。

  金的にも蹴りを入れる。男が倒れ込むと、ホルスターのボタンが自然に外れて拳銃が手に残った。そ

のシルエットとグリップ部の木製滑り止めからして、どうやらコルト・ガバメントのようだ。暗いので、

どのモデルなのかは分からない。

「ファッションセンスは皆無だが、銃はなかなかじゃないか」

  そう言うと、ガバメントの銃口を呆然と立ちすくんでいるシンジに向けた。

「ひっ!!」
  
  シンジは鉄パイプを投げ捨てると両手を挙げて降参のポーズをした。

「撃たないでっ、撃たないでっ!!」

  さらに両膝ついて命乞いする。

「それはおまえの返事次第だ。そうだろ?」

「はい、はい、はい」

泣いているのか、目が滲んでいる。

「おまえら俺が誰だか知ってて狙ったんだな?」

神崎は砂浜に落ちた吸いかけのセブンスターを拾ってもう一度強く吸い込んだ。オレンジ色の火口が暗が

りに浮かぶ。

「どうなんだ?」

「そうです、知ってて狙いました」

「誰に頼まれた?」

「兄貴です。兄貴に頼まれました」

「兄貴ってこいつのことか?」

  シンジは何度も大きく頷く。

「そんなことは分かってる。俺はその上にいる人物のことを訊いているんだ。レストランの外にも見張り

がいたな。ここに来たのはおまえら二人だけか?」

「はい、そうです」

  とりあえず車に向かった麗香は心配なさそうだ。

  ガバメントのスライドでシンジの頬を横殴りにした。頬骨が砕けたのか、陶器を割ったような乾いた音

がわずかにした。シンジがギャッと呻いて頬を押さえながら倒れた。

  兄貴分の男に目を移す。

「おい、兄貴?」

  返事はない。生まれて初めての眼球攻撃で、ちょっとしたショック状態に陥っているのだ。

  神崎は更に肛門の部分に靴のつま先で蹴りを入れた。銃を使おうとした相手に遠慮は要らない。尻の割

れ目に靴先をメリ込ませた。

「ぎ、ぎゃっ!!」

  今度は断末魔の怪獣のような鳴き声がした。

  男の内ポケットから財布を抜くと中身を調べた。厚皮の財布に万札が束になって詰まっている。ざっと

30万程か。せっかくの夜にケチをつけた迷惑料として頂戴しておくことにする。全額ジャケットのポケ

ットに突っ込んだ。

「随分と景気がいいじゃないか。ヤクザってそんなに儲かるのかい?」

「て、てめえ、こんなことしてタダで済むと思ってるのか?」

  男がしぼり出すようなかすれた声で答える。

「こんなことしなくてもタダでは済まなかったんだろう?それに少しは状況を考えろよ。早く手当てしな

いと、おまえ失明するぞ」

「ちっ...」

財布を漁ると、金菱が刷り込まれた同じ名刺を5枚見つけた。橋田高次。肩書きは黒川組舎弟となってい

る。同じ名前で不動産会社の役員の名刺もあった。それらもポケットに入れる。

「黒川組が何でまた俺を?」

「...」

「やっぱり失明したいようだ。以後の人生くだらんぞ。抱いてる女の顔もわからんようじゃ、どんな女と

やっても同じだな」

  そう言うと、目を押さえて無防備な橋田の鳩尾に蹴りを入れた。砂に顔を埋めて、苦しそうにむせいだ。

  胃液でも吐いたのか、すっぱい臭いが漂った。

「話せよ」

  橋田の右手が脇の下をまさぐった。

「残念ながら、銃ならそこにはないぜ」

  神崎はガバメントのスライドで橋田の頬を軽く二度張った。

  橋田の表情から気力が失せた。観念したのか神妙な顔付きになる。

「あんた若頭の恨みを買ったんだ」

「若頭?名前は?」

「工藤」

「フルネームで答えろ」

「工藤隆司」

「知らんな。俺が何の恨みを買ったというんだ?」

「自分の胸に手を当てて考えてみな」

「女か?」

「そうだ」

「その工藤っていう若頭の女房のことか?」

「違う、頭は一人者だ。おめえ頭の愛人に手を出したんだ。あの怒り様は半端じゃねえ。おめえバラ

されかねないぜ」

「女の名は?」

「そこまでは知らねえ。確か新地のホステスだ」

  心当たりはなかったが嘘ではなさそうだ。これでまた雑用が一つ増えた。ただでさえ忙しいのにと

心中ぼやきたくなったが、砂漠の狐のエージェントでなかっただけまだましだ。

「どこの店か知ってるか?」

「知らねえよ、あちこち通ってるからな」

「おまえもひっついて行くんだろう?」

「俺はまだ頭と同席できるほどじゃねえ。いつも隣のボックスで見張りだ。だからどの女とどれだけ

親しいのか、詳しいことは何も知らねえ」

「女の部屋らしきマンションに送り迎えしたことは?」

「俺は頭の車は運転しねえ。レーサー崩れのやつがいて、そいつが専属の運転手みたいなもんだ」

「工藤の特徴を教えろよ。心配するな、おまえが喋ったなんて言わないから」

  眼球が刺激されたので、両目から涙をこぼしている。

「いまさら渋るなよ。もうすぐ病院に行けるし、これ以上痛め付けるのは俺の趣味じゃないからな」

  そう言うと、ハンカチを渡してやった。それから5分ほどの質問攻めで工藤の特徴を概ね掴んだ。

「で、工藤に今夜俺をバラせと言われたんだな?」

「いや、そこまでは言われてねえ」

「じゃあ、どうしろと?」

「おめえの金玉に一発ブチ込めと言われた」

「随分だな」

  笑いながら呆れ顔をすると、三本目の煙草を工藤の頬でもみ消した。

「あちちっ、てめえ、なにしやがるっ!!」

「おい橋田、おまえ口が軽いな。そんな根性じゃ幹部は到底無理だぜ」

「やかまし...」

  神崎は橋田の脂ぎった髪をひっ掴んで、ガバメントの銃口を口に突っ込んだ。必死に何か言っている

が舌が動かないので声にならず、喉だけが鳴っている。

  どうせこいつはまた来る。こうして死の恐怖を植え付けておけば必ず思い出すだろう。それが奇襲の

足を鈍らせ、判断力を鈍化させ、結果、隙を生む。

  神崎はこれ見よがしに安全装置を外し、ゆっくりとハンマーを起こした。更に銃を押し込むと眼孔が

見開き、失禁したのか股間を黒く濡らした。歪んだ笑いを見せながらガバメントを口から抜くと、今度

は股間に狙いを定める。

「今おまえの玉を狙っている。悪く思うなよ。俺が撃たれていたかもしれんのだからな。おまえは負け

たんだ。だから仕方なかろう」

  橋田が、腰を抜かしたように両手両足で後ずさった。

 バーン!!

  神崎が発砲音を口まねした。

「ひーっっ!!」

撃たれたと思ったのか、橋田が股間を必死に押さえた。

「撃っちゃないよ、橋田」

  橋田が指先で確かめる。

「ありがと、ありがと,,,」

  拝むように言うと、幼児のよう泣きじゃくる。

「携帯くらい持ってるだろう?自分で救急車を呼べ。もちろん、俺は何の関係もない。それから、こん

な大人のオモチャは危ないから海に捨てておく」

  これ見よがしにガバメントを手にかざすと海に放り投げた。しかし、ボチャリと沈んだそれはガバメ

ントではなく橋田の財布だった。瞬時に持ち替えたのだ。そっとジャケットの下でガバメントをベルト

に差す。銃を持ち帰ったと思われたくなかった。次の襲撃で対抗してショトガンかマシンガンで武装さ

れたらたまったものではない。この程度で騙せたかどうかは疑問だが、緊迫した場面でこういう細かな

ことにまで気が回るか回らないかの差が結果的に大きな違いを生む。橋田のホルスターにある予備マガ

ジンも一緒に持ち帰りたいところだが、それは諦める。

  後ろで砂を踏む音がした。

  目をやるとジンジが鉄パイプを握りしめて立っている。顔の左半分が腫れあがり、さっきより五歳ほ

ど老けて見えた。

「ほう、ちょっとは根性あるじゃないか」

  神崎が感心したように言う。

「うるへー!!」

「ちゃんと喋れないのか、ははは」

  シンジの表情に怒りが充満し、頭上に鉄パイプをかざしながら突っ込んできた。が、振り下ろされた

それは神崎にしてみればスローモーションのようなもので、上体をねじって何の苦もなく見切った。肩

横3cmのところで鉄パイプが空を切る。ガコッ、という鈍い音と共に鉄パイクの震えるエコーかかっ

た金属音がした。

「ぎゃっ!!」

振り下ろされた鉄パイプの先端が橋田の頭に当たって大きく跳ね返ったのだ。橋田が今度は頭を押さえ

ながら砂浜をのたうちまわる。

「おまえも随分といい子分を持ったな」

  鉄パイプを構えたままシンジが呆然としている。その鼻っ柱に裏拳でも叩き込んでやろうと拳を握っ

たが、バカらしくなったので止めた。殴るには格が違い過ぎる。

「散々な夜だったな」

  神崎はシンジの肩を叩くと立ち去った。


 ガバメントのチャンバーをチェックして、弾が送り込まれていることを確認する。もしそうでなけ

れば初弾が発射せずに命取りとなる場合もある。弾は金色にコーティングされているので、顔をくっ

つけなくても確認できた。

 コルベットに近づくにつれ、アイドリングの規則的な排気音が腹に響いた。万一に備えてエンジン

を始動したのだろう。 

  水銀灯の光が微かに届いて、浜より少しは明るい。神崎が右手を軽く挙げて無事を伝えると、それ

が見えたのかリトラクタブルライトが起き上がって辺りを照らした。

 神崎は麗香に優しく微笑みかけたが、ジャケット下の左手指はトリガーに掛かっていた。車の後ろ

が死角になっている。その影から銃器で武装した者が飛び出してきたら躊躇わずに撃つつもりでいた

が、幸いそれは取り越し苦労で済んだ。

 ド素人のツメはさすがに甘いな。靴紐を直す振りをしながら、そう毒づいた。ガバメントの安全装

置をロックするとベルトに差し込む。ジャケットの前ボタンは閉めておいた。

  シートに収まるとガバメントがつっかえたが、今はダッシュボードに仕舞うわけにもいかない。

「大丈夫でした?」

 両手を胸で合わせながら麗香が不安気に訊ねた。

「ああ、大丈夫だ。シンナーでも吸ってうろついてたんだろう。訳の分からないことをブツブツ言

ってたよ」

「良かった。どうなることかと思ったわ」

「心配ないさ」

 女殺しのはにかんだ笑顔で神崎は答えた。 

 エンジンを何度か空吹かすと、一気にアクセルを踏み込んでスピンターンした。タイヤが悲鳴を

上げながら路面を激しく擦り、風で運ばれた海砂がスプリンクラーの水のように辺りに飛び散る。

「キャッ!!」

  助手席から嬌声が上がると、加速で二人の背中がシートに張り付いた。

「さて、仕切り直しだな。酔いも飛んだだろう、どこかでもう一杯やるか?」

 右手でせわしくシフトアップしながら訊ねたが、麗香の返事はない。

 コルベットは数秒で120キロをオーバーし、そのまま突っ走った。



 10分ほど走り、国道2号線と合流する手前のコンビニエンス・ストアで駐車場に車を突っ込む。

「ちょっと買い物してくるからここで待っててくれ」

 そう言いのこすと、すぐにビニール袋を下げた神崎が店から出てくる。中身は安物のウオッカと

ワインだ。安物なのは予算の問題ではなく、それしかなかったのだ。

 それを手渡された時、どこかのバーで飲むものと思っていた麗香は少し驚いたが、その予想外の

行動には少女めいた懐かしいときめきを感じた。

 警察の存在など全く無視するような運転で、六甲山には30分で着いた。

 見晴らしのいい場所を見つけるとウインカーを点滅させながら、ゆっくり減速していく。キーを

ひねるとエンジンのビートが鳴り止み、車内がとたんに静かになった。

「いつもこんなに飛ばすんですか?」

 狂気じみたスピードから解放されて落ち着いたのか、表情に安堵の色がうかがえた。

「マルセイユではもっと飛ばしてたよ」

「えっ、マルセイユ!?」

「いいんだ、聞き流してくれ」

 それに関する質問は受け付けない、といった具合にドアを開ける。
 
  車外に出るとさすがに山頂付近だけあって冷える。
 
  遥か下に神戸の夜景がチラついていた。いつ見ても綺麗だ、神崎は純粋にそう思った。

 ウオッカの栓をひねってラッパ飲みで胃に流し込むと、一本吸い終わるまで無口に眺めた。吸い

殻を指で弾き飛ばすとオレンジ色の蛍が飛んでいくように見えたが、無数に輝く街の灯と重なって

すぐに消えた。

「安物のワインだけど飲めよ。少しは暖まるだろうし」

 ビニール袋からワインを出して手渡した。

「あら、コルクだわ。栓じゃないのね。コルク抜きまでは買ってないでしょう?」

「俺も馬鹿だな。でも大丈夫さ。貸してみろよ」

 ワインをボンネットに置くと背筋を伸ばして息を整えた。

「手品ですか、神崎さん?」

「...」

 麗香が嬉しそうに見守ると、不意に神崎の手刀が闇を切ってワインボトルの首をすっ飛ばした。

  手品でも何でもなかった。首はガードレールを越え、崖下の木々に静かに落下していった。残

ったワインボトルが微かに揺れ、そして止まった。

「これでいいだろ」

 何食わぬ顔で微笑を含んだ神崎とは対照的に、麗香の瞳は驚きで見開いている。何か言いたそ

うだが、言葉にならないような感じだ。

「グラスがなきゃ、飲みにくいか?」

 神崎はワインを口に流し込むと麗香を抱き締めた。抵抗はない。髪の毛を軽くひっぱり麗香の

顔を自分に向けると、ゆっくり口移しで飲ませてやった。麗香の白い喉が微かに脈打つ。

 唇を離すと、そこには麗香の情熱的な瞳があった。何かに火が付いたような、さっきとは別人

の瞳だ。

「もっと欲しいの...」

 言葉遣いまで変わると神崎の背中に両手を回し、豊かな胸を押し付けてきた。

  お代わりのワインを流し込むと唇はいつまでも離れず、ルージュが剥げ落ちるまで啜り合った。



 ハーバーランド横にあるホテルの部屋からは三ノ宮の街が良く見渡せた。高い階の部屋ではないが、

埋立地に建てられたそのホテルは繁華街から適度に離れた距離にあり、六甲山からの眺めとはまた違

った夜景を楽しむことができる。

 神崎は持ち込んだウオッカをラッパ飲みしながらベランダに出た。

  塩気を帯びた秋の夜風がシャワーで火照った体を柔らかく撫でて心地好い。近くに大型旅船が停泊

しており、デッキが賑やかに飾られていた。目を涼しげに細めると、船上パーティーの後片づけでも

しているのか、白黒ツートーンのクルーたちが蟻のようにせわしく駆けずり回っているのが見えた。

 立て続けにウオッカを流し込むと胃と喉が熱く焼け、その熱量が徐々に欲情に転化するのを感じた。

  下半身に巻かれたバスタオルの前が盛り上がり、シャワーを浴びている高田麗華の躰を激しく求め

ている。今夜やけに高ぶっているのは、さっき押しつけられた彼女の豊かな胸のせいか、あるいは、

久しぶりに握った拳銃の冷たい感触のせいなのか自分でも分からなかった。

 瓶底のウオッカを飲み干すと目下に広がる海に向かって投げ棄てた。

  耳を澄ましたが、着水の音は聞こえなかった。海面を走る風の音と、ゆっくりと港から出ていく小

型船舶のエンジン音、それにシャワーの滴りだけが耳に届いた。

  血管が脈打つのがはっきりと分かる。少し酔いが回っているのかもしれないが、足元がふらつくほ

どではない。

 こうして酔っ払い、のんきにベランダで夜風を浴びられるのも今のうちだろうなと苦笑した。これ

から相手をしなければならないのは、ナイフや銃があれば無敵だと錯覚するようなさっきのチンピラ

とは根本的に人種が違う。彼らは十分な訓練を受け、有り余る闇の資金で最新鋭の特殊部隊と変わら

ぬ装備を持ち、更には自分の命など組織のためにあると信じ込んでいる盲信者たちだ。この手の連中

を相手にサバイバルするのは容易ではない。

 実戦を経験している神崎は、中でもスナイパーのタチの悪さを熟知している。彼らに狙われたら最

後、戦場はもちろんのこと、こうしてベランダでまどろんでいる瞬間にも頭を吹っ飛ばされかねない。

訓練された狙撃手が最新式のライフルを使えば2km先からでもスナイピングが可能だ。こうなると、

いつ何時、その瞬間が訪れるのか分からない。恐らくは苦痛を感じる暇もなく死んでいくのだろう。

それが、救いと言えば救いだが。

  一度、外人部隊在籍中に米英との共同作戦で南アフリカのメシナに駐屯した際、将校の脳みそが辺

りに飛び散ったのを見たことがある。ペンタゴンから政治的視察に来た彼は、一目でそれと分かる上

級将校のユニフォームでキャンプをうろついた。デルタの誰かが見下すように注意したが、ボツワナ

の経済的に困窮したゲリラ兵の中に訓練されたスナイパーやそれに相応しい銃などあるはずがないと

タカをくくったのか、うざとく片手を振ると忠告を無視した。彼の頭が吹っ飛んだのはその三十分後

だった。100m先から狙われたのか、1km先から狙われたのかは分からない。

 事件後神崎は、「ヨハネスバーグで女を買うより100倍スリリング」と豪語してはスナイパー狩

りをよく行った。召集されたもののベースでは毎日模擬訓練ばかりで実戦はなく、その煮えたぎる熱

い血の向けどころに困っていた神崎や一部の荒くれ者たちは規則を破り、ベースキャンプから抜け出

しては闇に潜むスナイパーを探し回った。昼間に行えば自殺行為に等しいが、夜には暗視装置という

頼もしい見方があった。両眼ゴーグル式のそれを頭に巻き、夜な夜なキャンプ周辺の密林を這いずり

回ったのだ。

  神崎はフランスからの参加であり、米軍所属の作戦総司令官も特に他国の兵士を厳しく管理する

ことはなかった。神崎たちのチームは、作戦が大いなる成果を上げたとき、そこにフランスの名を刻

むために申し訳程度に派遣されたいわば捨て駒なのだ。フランスからの参加は他にDINOPUSが

もう1チーム来ているだけで、そのチームリーダーでありフランス派遣組の責任者でるピエル・ハー

ジ中佐も元はならずものの叩き上げ士官なので、神崎たちを注意するどころか最後には自分も一緒に

なってスナイパー狩りに参加した。幸い、フランスからは小うるさい事務屋も駐屯していなかったの

で、神崎たちは好き勝手にやった。総司令官からは、「死のうが捕まろうが、救出チームは一切出動

しない」と申し渡されたが、そんなことは初めから期待していない。相当危険なことに片足を突っ込

んでいるのは分かっていたが、不思議と死ぬ気はしなかった。

 ある日、朝食の時間になっても神崎がベースに戻らなかった。

「今ごろとっ捕まって、吊されてる頃だな」

「もうとっくに殺られてるさ」

「いや、ハンサムボーイだからカマを掘られてるかもな」

 みんながそう揶揄した。精神的にも十分に訓練された特殊部隊の隊員は、その本心とは裏腹に、ど

んな悲劇的な状況をも笑いのネタにする。神崎と同チームのフランシス・イグノアが眉を釣り上げS

EAL隊員の一人に掴みかかろうとしたとき、一応その仕切りをもって食堂としているカモフラージ

ュグリーンの陣幕が開き、神崎が入ってきた。頭から流れる血が顔の右半分に固まってドス黒くこび

りつき、背中にはPSG−1スナイパーライフルがかけられている。殺した敵からの捕獲品だ。右腕

も負傷しているようで、甲や指先が赤黒く染まっている。

 全員が言葉を失う中、神崎はプレートをひったくると調理係に平然と言った、

「ベーコンとスクランブル・エッグは大盛りにしてくれ」

 グリーンの簡素なテーブルに着くと、

「こんなものが懐にあった」

 そう言って敵兵からぶん捕ったスコッチウイスキーの小瓶を皆に見せ、脂ぎったベーコンを噛み千

切りながら、規則を無視してあっという間に空けてしまった。

 その瞬間から神崎はベースの英雄になった。

 食後、神崎はその日のメニューである体力測定を休んで夕刻まで眠りこけたが、誰も彼をとがめな

かったし、それどころか、起こすまいと話し掛けさえしなかった。目を覚ますと、今までまともな会

話さえなかったデルタやSEAL、そしてSASの連中が滅多に見せない笑顔で次々と話しかけてき

た。レインジャーの連中も興味ありげに集まってきたが、猛者達に気後れしたのか輪には入って来な

かった。

  戦利品のPSG−1は神崎の個人所有物となったが、他部隊のスナイパー資格を持つ隊員たちに

教えを乞い、スナイピングの技術をみっちり教わった。PSG−1に使う51mmNATO弾はデル

タやSEALの連中が持ってきてくれた。気難しい彼らではあるが、一度相手を認めるとその態度は

別人になる。神崎も礼に代えて、幼少から父親に叩き込まれた空手に独自の方法論を加味した格闘術

を教えてやったりした。既に格闘技には熟練した彼らであるが、神崎のレクチャーには熱心に聞き入

った。

 神崎が拾得したスナイピング技術を試そうと、自主的に見張りに付いたのも一度や二度ではない。

  ベースに近づいてくる敵兵を見つけてはPSG−1で撃ちまくったので、次第に敵も寄りつかなく

なった。これが評価されて、神崎は後に米軍から特別勲章を授与されている。

「あの朝のスコッチは最高に美味かったな...」

 懐かしくそう思ったとき、バスからシャワーの音が消えた。

 神崎が一本吸い終わらないうちに、バスロープに身を包んだ高田麗華がベットルームに入ってきた。

緊張しているのか両手を胸の前で合わせている。その表情は口説かれた処女のように、期待と不安が

入り交じった複雑なものだ。

 神崎は室内に入らずに、ベランダに来いと、無言で手招きした。

 足裏を絨毯に擦るようにして麗香がじれったく歩み寄ると、ベランダの一歩手前で神崎に抱えられ

てその体が軽々と宙に浮く。

 昨夜ジムでヒットさせた上腕三頭筋がわずかに痛んだが、神崎にしてみれば麗香の体重はウオーム

アップ程度にしか過ぎない。

 麗香の真ん丸とした尻をベランダの手すりに乗せると、両腕を背中に回した。手を放して指先で軽

く突いてやれば真っ逆さまに海に落ちる体勢だ。

  神崎が少し見下ろす格好で長いキスをした。

  下品な音などお構いなしに唇や舌を何度も吸うと、麗香の躰は手すりの上で軟体動物のようにく

ねくねとうねった。バスロープの前が開き、うねるたびに麗香の乳首が神崎の大胸筋を撫でるように

刺激する。

 神崎はその乳首にむしゃぶりつきたい衝動に駆られたが、代わりにお互い勃起した乳首を擦り合わ

せては微妙な刺激を愉しんだ。神崎の浅黒い肌のせいで、麗香の薄ピンク色の乳首がいっそう艶めか

しく映えた。

 気が付けば麗香の両足が神崎の胴にきつく絡み付いていた。柔らかい陰毛が神崎のくっきりと浮か

び上がった腹筋を綿のように撫でる。

  神崎は麗香の唇に長い舌を突っ込みながら、腹筋の隆起を上下させて麗香の股間を擦った。神崎

の腹筋に生暖かい粘液が塗りたくられ、やがてそれは下半身の茂みにまで垂れた。

 麗香を手すりから降ろすと、後ろ向きにしてバスロープを剥ぎ取った。神崎は脇の下から両手を回

し、麗香の豊かに盛り上がった乳房を鷲掴みにした。首筋や背中にキスの雨を降らせながら揉みまく

り、柔らかな感触をいつまでも楽しんだ。

 十分に勃起した男の凶器をたまに尻の割れ目に押しつけると、それだけで麗香は弓反りになって淫

靡な叫びを隣室にばらまいた。

 麗香の体を片腕で軽々持ち上げると部屋に入りベットに移動する。
 
 事の最中、汗ばんだ躰を潮風で冷やせるように、ベランダの窓は空けたままにしておいた。
 
 横になると麗香が髪の毛を掴んで激しいキスを求めてきたので、神崎も口紅が剥げ落ちるまで唇と

舌で存分に応えた。熱く硬直した凶器が麗香の腿に触れるたびに吐息が漏れ、それが神崎の口中に生

ぬるく流れる。

 神崎は横になっても型崩れしない豊かな乳房に激しく吸い付き、左手を腿の付け根に回した。指先

に粘液が絡み付き、軽く指を動かすとニチャニチャと猫がミルクを飲むような音を立てた。

 神崎が上体を起こして麗香の足を左右に広げると、挿入の意志表示をする。
 
 麗香も下半身の緊張を解いてそれを受け入れた。
 
 それから30分程、神崎は本能に任せて突きまくった。

 その体液を放出する時、背中に爪を立てた両腕も力なく解き放たれ、高田麗香は白目を剥いてどこ

かの宙をさまよっていた。

 神崎がベットを離れても反応はなく、死んだように横たわっている。

「少し激しく抱き過ぎたか...」

 筋力にものを言わせてアクロバティックな体位も試したので、普段は使わない筋肉が少し痛んだが、

今から再度求められてもその戦闘能力はまだ十分に残っている。

 ベランダで熱くなった躰を冷やしながら一服つけると、冷蔵庫のミネラルウオーターを一気に飲み

干してベットに潜り込んだ。シーツが麗香の体液で激しく濡れているのでバスタオルを敷いた。麗香

は木偶のようにのびたままだ。

 アラームを六時半にセットすると部屋の電気を消して目を閉じた。

 ウオッカの酔いが激しいセックスのせいで全身に回ったようで、すぐに軽い寝息を立てた。



 デジタルの無機質な目覚まし音が響くと、神崎は寝ぼけることなくベットから跳ね起きた。

 眠ったのは二時間程だが、熱いシャワーを頭から浴びながら頬を何度か張ると、その瞳に鋭利な輝

きが再び宿る。

 ウオッカを一本空けたせいか喉が異常に乾いていたので、シャワーを冷水にして降り注ぐそれを構

わずガブ飲みした。複雑な隆起を見せる筋群に沿って冷水が流れ落ち、細胞の一つ一つが目覚めてい

く。冷水の冷たさに冬季訓練でのビバークを思い出したのもつかの間で、その記憶は活性化し始めた

胃の食欲によって打ち消された。ルームサービスでハムステーキとトースト、それにブラックを頼み

たいところだが、ちんたら待たされたのでは出社に遅れてしまう。

 シャワールームから出ても麗香はまだ死んだように眠っている。

 いったん服装を整えて駐車場まで降りると、コルベットにいつも常備してあるビジネススーツを出

す。これがあるおかげで家に帰らなくても済む。ダッシュボードを開けてガバメントを手に取りたい

ところだが、それは今夜のお楽しみだ。

 部屋に戻ってスーツを着込むと、麗香が「う〜ん」と一つ唸って寝返りを打った。神崎の野獣めい

た攻撃を受けて完全にKOされてしまったようだが、無理もない。彼の凶器による激しい突き上げを

受ければ、これは決して珍しい光景ではなかった。

 デスクにあったメモに楽しい夜だった、ありがとうと走り書きして乱れ髪が散らばる枕元にそっと

置く。未だ夢の中といった風情の横顔を覗き込むと、神崎に激しく吸われた唇が腫れていた。



 大阪市内の停滞に舌打ちしながらコイン式のパーキングにコルベットを突っ込んだのが8時40分。

 ダッシュボードに仕舞ってあるガバメントが気になったが、オフィスに持って行くわけにもいかな

いのでそのままにしておく。

 再び喉がカラカラに乾き、激しい食欲を覚えたが、朝食の時間はなさそうだ。会計士の仕事など天

職だとは思ってもいないので、会社などいくら遅刻して首になろうが構わないが、時が来るまでは一

般人的な生活も送って、煮えたぎる血を沈めている部分があることは神崎も認めている。

 定時までにタイムカードを打とうと朝食抜きで早歩きしている自分を自嘲しながらも、焦ったとこ

ろで仕方がないと言い聞かせた。

 馬の小便のようなカップベンダーのコーヒーで胃を紛らわしつつ、クライアントの長期的資産運用

計画書を作成する。いったん始めると空腹も忘れて二時間があっという間に過ぎた。

 特に昼食の時間などは定められていないので、11時を過ぎると一人抜け出し、まだ誰も客のいな

いステーキハウスに飛び込んだ。特厚のハムステーキとパンを胃に放り込むとやっと人心地ついた。

 まだ満たされたわけではなかったが、満腹にすると睡魔が襲ってきそうなので我慢する。
 
 煙草を二本灰にすると、早めに戻って仕事に取り掛かることにした。残業などクソ食らえだ。

 店を出ると、これから昼食に出かける同僚たちが通りかかった。

「早い昼飯だね」

 そう揶揄されても、

「どうも」

 と軽く受け流したが、あまり社内では目立ちたくないので多少のバツの悪さは演技で入れておいた。 

 ガラスレンズの奥に鋭く宿る視線のせいか、誰もそれ以上神崎を茶化す者はいない。
 
 だだっ広いオフィスに戻ると、節電のために電気が消してある。
 
 昼時も報告書の作成に充てようと思っていたが、予定を変更してデスクの引き出しから私物のノー

トパソコンを引っぱり出して電源を入れた。携帯電話をスロットに差し込んでメールソフトを立ち上

げると、プライベートの新着メールをチェックする。五通のメールは全て夜のクライアントの女性た

ちからで、概ね今度はいつ会えるのかといった催促のメールだ。

 その中の一通、佐々木真希からの来週末の沖縄旅行の誘いには心を惹かれた。ここのところ多少疲

れを感じているので、いい気分転換になるかもしれない。

 金曜有給を取るので木曜の夜から一緒に出掛けようと返信し、その他のメールにも手早く返事を書

いた。

 送信が完了するとノートパソコンをデスクに仕舞ってロックを掛けておく。

 五時まで集中して長期資産運用の報告書を作成すると、約半分が仕上がった。あと一日あれば完成

するだろうから、明日も作業に充てれば週明けの会議には充分間に合う。

 背中をひん曲げてデスクに囓り付いている同僚や上司たちを横目に、お先に失礼します、と席を立

った。書類やモニターから顔を上げた彼らに驚きの色は隠せないが、あまりに堂々としているので誰

も何も言わないし、神崎のいつもの度胸を密かに尊敬している気の弱い同僚も結構多い。

 部長の中島がバツ悪そうに一つ咳払いしたが、神崎の広い背中はそれを無視してオフィスのドアか

ら消えた。

「やれやれ、今度注意しなくちゃな...」

 誰に言うともなく中島が低く呟いた。



 大型書店で「ライ麦畑で捕まえて」の英語版を買うと帰路についた。車はいつものように飛ばさ

ない。ダッシュボードの中に昨夜頂戴したガバメントが仕舞ってあるので念のためだ。

 マンションの地下駐車場に車を突っ込むと、辺りに誰もいないのを確認してガバメントを出す。

 真っ先にスライドの刻印を見た。MKWSERIES80と彫り込んである。歴史の長いガバメント

シリーズの中では新しいもので、このモデルを手にするのは初めてだ。何度か使ったことのある

M1911A1のモデルであればと願っていたが、それは叶わなかったようだ。それでも、久し

ぶりに握る実銃の感触に神崎の脳は軽く痺れた。スライドが淡い明かりを受けて青黒く輝き、木

製のグリップに埋め込まれた銀のメダリオンが美しい。グリップの滑り止めが手に突き刺さるよ

うで、あまり使われたことがない銃のようだ。一発ブッ放してみたかったが、それだけで手錠が

回ることになるので我慢する。

 名残惜しそうにガバメントをジャケットでくるむと、他の荷物を持って車外に出た。

 うさぎ小屋よりも窮屈そうな地下駐車場管理人のブースを歩きながら横目で覗くと、いつもの

大学生が機嫌悪そうに神崎を見返してきた。勉強でもしていたのか、蛍光ペンが引かれた書物が

開かれている。

 45口径弾でこの距離なら、顔三分の一は吹っ飛ぶだろうな...意味もなくそんなことを考

えながら通り過ぎると、17階まで階段を駈けた。ジャケットにくるまれたガバメントの適度な

重みが心地よい。

 ドア上部の銀紙をチェックして玄関に入ると、今日はコマンダーの代わりに両手でガバメント

を構えた。奇襲攻撃の要領で素早くルームクリーニングして回ると、何万回という演習で叩き込

まれたCQBの要領がにわかに蘇り始める。

「Room cleared」

 最期の部屋でそうつぶやくと両肩の力を抜いて銃口を下げる。瞳が若干和らいだ。



 ガバメントの隠し場所を思案したが、とりあえずは枕の下に突っ込んだ。

 パソコンを立ち上げ、「ライ麦畑で捕まえて」を袋から引っぱり出す。

 メールソフトへのショートカットをダブルクリックすると、ページを繰りながら暗号メールを

作成した。入力された数字は一桁のページ数、行、そして行の先頭から何個目の単語かをそれぞ

れ表している。適当に挟まれたアルファベットは本文とは全く関係のないただのフェイクだ。

 送り相手はアディシン・スンサ、サウジアラビアに住む武器の横流し屋。最も、最後にメール

でやり取りしたのが二年程前なので既にサウジにはいないかもしれないし、商売替えをしている

かもしれないが、お互いに気心知れた仲なので先ず当たるべきは彼だ。

 アディシンはフランス外人部隊時代のDINOPUSで同じチームだった。酸の雨作戦にも一

緒に参加した。その作戦で神崎の所属したチームは八人中五人が戦死したが、その生き残りの仲

でもある。アディシンとは作戦終了から除隊までの三ヶ月間で急速に仲良くなった、別の言い方

をすれば、友情を感じるようになった。それはクールな神崎にとって初めての感情でいささか戸

惑ったが、やはり生死を共にした仲というのは特別で、暇を持て余したときはワインやビールを

啜りながら随分とバカ話もした。彼もまた優秀な特殊部隊員だったので、お互いに認めあった部

分もある。帰国して一年、公認会計士補としての実務に明け暮れていた頃、アディシンから武器

の横流しを始めた旨のメールが届いた。リストに載る銃器類はどれも小物ばかりだったが、二通

目のリストにはM16やAK47などのアサルトライフルからRPGなどの特殊兵器まで載って

いた。注文するときの暗号化の方法も文末に指定されていた。別に軽蔑はしない。アディシンを

一人のビジネスマンとして認めている。世界の裏側を見た者にとっては車を売りさばくのも、銃

器を売りさばくのも、そこに大した違いはなかった。

 注文の品は45口径通常弾10カートンとガバメントSERIES80用のマガジン三装。ホルスタ

ーも必要だが、それは日本のモデルガンショップで簡単に手に入る。

 神崎は簡単な近況も添えてメールを送信した。

 送信完了。

 とりあえずアドレスは死んでいないようだ。いつアディシンの目に触れるのか、あるいは、触

れないのか分からないが、とりあえずは待ってみるしかない。

 パソコンの電源を切り、ネクタイを外してシャツを脱ぎ捨てると、キャビネットからワイルド

ターキーをひっ掴んでラッパ飲みした。喉と胃が熱く焼けた。

 アラームを二十時半にセットし、黒のブリーフ一枚になると、シャワーも浴びずにそのままベ

ットに横になった。これで二時間半ほど睡眠時間を稼げる。

 夢見るような表情で軽い寝息を立てるまでにそう時間はかからなかった。



 目覚ましに叩き起こされるより少し前に目が覚めた。補い切れない睡眠不足を感じたが、熱い

シャワーを浴びるうちに脳も活性化し始め、体も徐々に軽くなる。高田麗香のヌメヌメした愛液

が下半身の茂みにたっぷりこびり付いている。神崎はボディーソープで全身を洗うと、その泡を

すくって髪も洗った。ショートヘアなので楽に洗える。

 洗面台でムースを頭に撫で付け、手ぐしでオールバックに仕上げた。日本人離れした鼻筋と、

彫刻刀で削ったような鋭い瞼が一層強調されて精悍さを増す。唇は薄目でどこか冷酷そうだが、

過剰な栄養を吸って無駄に盛り上がってはおらず野性的な魅力が溢れている。

 あまり目立たないようにとジーンズにTシャツ、その上に茶色のツイードジャケットを羽織った。

 枕に突っ込んであったガバメントをキッチンの天袋に隠しておく。入居前から据え付けられて

いた天袋の中はからっぽで、開けるとニスの匂いが漂った。長身なので、手を延ばせば奥まで届く。

 北新地へは車を使わずに梅田まで地下鉄に乗り、そこから徒歩で向かった。着いたのは九時過

ぎだ。本通りに入ると、幹部クラスのやくざが乗っているのか、何本ものアンテナを林立させた

黒塗りにスモークのベンツがクラクションを狂ったように鳴らしがら通行人を押しのけて行く。

同伴出勤丸出しの、金以外何の接点も見い出せない露出度の高い女性の横にいる冴えない中年男

がベンツに何か罵ったが、それでも大声を出す勇気もないらしく、後ろにいた神崎でさえ聞こえ

ない程だ。見上げれば無数に輝くサインが黒ずんだ空まで蛍光色に染めている。

 神崎は同僚とすれ違っても無視できるように茶色の偏光サングラスをかけていたが、そのレン

ズ越しに誘うような視線を送ってくる夜の蝶も少なくない。その容姿からしてさぞや売れっ子な

のだろうが、冷たくすれ違った。

 神崎は本通りの中でもひときわゴージャスなビルの正面で案内係をしている蝶ネクタイ姿のボ

ーイを認めると、財布から万札数枚を抜いて彼に歩み寄った。

「ちょっと、尋ねたいことがあるんだが...」

 威圧的ではないものの、かといって優しげな響きでもない口調で、サングラスは外さずに話し

かける。

「はい、何でしょう?」

日焼けした顔に茶髪はどこかホストのようだが、愛想のいい笑顔が返ってきた。客と勘違いした

のだろう。人を捜していると言うと、とたんに怪訝そうな眼差しで神崎を斜に見上げた。

「いや、何も一方的に協力してもらおうとは思っちゃないよ」

 ボーイの肩を馴れ馴れしく抱き、辺りから見えないように万札1枚ポケットにねじ込む。ボー

イの表情がハケで塗ったようにとたんに変わった。

「こういうことなら話は別ですよ。で、どんな人を捜してるんです?」

「黒川組って知ってるな?」

「そりゃ知ってますよ。日本有数の暴力団で関西はそのお膝元ですから」

「黒川組の工藤って男を探してるんだ」

「ああ、良く聞く名ですねえ。顔は知らないけど週に一度は新地に来るって噂ですよ。何でも一

流の芸能人以上に気わないといけないので、店の従業員はみんなピリピリするそうです。まあ、

ドンペリなんかをバンバン抜くので充分な見返りはあるそうですが」

「詳しいな。どの店か分かるか?」

「たぶん向かいのアンティークじゃないかなあ。ほら、あそこにネオンがあるでしょ。あそこの

バーテンがどこかの組長に粗相して殴られたっていう話を聞いたことありますよ。確か黒川組の

なんとかだとホステス連が噂してたことありますよ。今時は派遣で店を掛け持ちしてる娘が多い

ので、そういう話はここではすぐに広がるんです」

「毎週何曜に来るか分かるか?」

「さあ、そこまでは。ホステスに頼めば連絡してもらえないこともないですけど、チクる相手が

相手ですからねえ...」

 そう言葉を濁らせては抜け目のない眼差しで神崎を見上げた。

「なかなかの商売人だな」

 神崎は苦笑しながら更に万札二枚をポケットにねじ込んでやる。

「これで商談成立ってわけですね。どこか連絡先は?」

 神崎は偽名で取得したプリペイド携帯の番号をメモさせた。

「ホステスから連絡入り次第超特急で電話しますよ」

 薄笑いを浮かべてボーイは言ったが、神崎はそれには応えずにきびすを返した。

「ちょっと、俺を信用していいんですか?このままトンズラってこともありますよっ!!」

 その背中にボーイが言う。

「おまえの顔は覚えたさ」

 神崎の振り向きざまの言葉にボーイは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに元の薄笑いに戻ると、

札がねじ込まれたポケットを二度軽く叩いた。


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 新地の本通りにある喫茶店に入ると、窓際の席が空いていたのでそこに腰を降ろす。ガラス越しに通

行人が見渡せるので都合がいい。店内には多くの出勤前のホステスがおり、煙草をくゆらせながらファ

ッション誌をめくったり、客に営業でも掛けているのか携帯電話越しに安っぽい媚びを売っている。

 夕食がまだなので、注文を取りに来たウエイトレスにギネスとハンバーグ定食をオーダーした。

 サングラスを外すと回りの席にいるホステスたちの視線が神崎に集中したが、それには気付かない振

りをして火傷しそうなおしぼりを目頭に当てた。ポケットの携帯が振動して着信を告げる。二つ折りタ

イプの携帯を開くと、ディスプレイには佐々木真希の名前があった。通話ボタンを押す。

「もしもし、神崎さんですか?」

 一つ一つはっきり発音しようと努力しているようだが、緊張しているのか語尾が消え入った。

「そうだよ」

「たったいまメール読みました。本当なんですか?」

「もちろん」

「本当に本当?神崎さんと一緒に沖縄に行けるなんて...」

 砂糖菓子のようなふわふわした夢見る声でそう言った。

「俺もだ。大いに楽しもう」

「木曜の夜の出発でいいんですね?」

「ああ」

「じゃあ、関空発の最終便を予約しておきます。ホテルはどこがいいですか?」

「君と一緒ならどこでもいいよ。あまりにボロの部屋は御免だがな」

「神崎さんが来て下さるんですもの、もちろんスイートを取っておきます。万座がオクマ辺りはいかが?」

「いいね」

「夕食はホテルでとりますか?」

「いや、外でいい」

 テーブルにギネスが運ばれたので、神崎は喉を鳴らして半分飲んだ。隣のテーブルにいる若いホス

テスが唇を舐めながら神崎の上下する図太い喉仏を妖しく見つめている。

「あら、いまお食事中でした?」

「そうなんだ。大した席じゃないがね」

「それじゃあ、また予約したらメールで詳細をお送りします。急に予定変更したら嫌ですよ」

「大丈夫さ。俺が今まですっぽかしたことあったか?」

「だって...」

 しばらく雑談を続けたが、ハンバーグが運ばれてきたのを潮に電話を切った。取るに足らない味だ

が、腹が減っているのでそれなりに旨い。隣のホステスが、今度は神崎の横顔とフォークの柄に添え

られた長い指を交互に見つめている。その眼差しは声をかければ三十分後には背中に爪を立てそうな

雰囲気だ。神崎はその視線を知りつつも無視して、ハンバーグとライスを口に運びながらガラス越し

に通行人をチェックする。今時のやくざは一般人とあまり変わらない服装が多いので、取り巻きがい

なければそれらしい人物を探し当てるのでさえ一苦労だ。工藤は小太りでアルマーニを着込んでいる

と聞いたが、それだけでは情報不足であり、当面はさっきのボーイに期待するしかない。しかし、他

力本願は柄ではないのでとたんに納得いかなくなる。これなら組の事務所に張り込んだ方がてっとり

早いか?いったんそう考えると神崎の行動は迅速だ。残りのハンバーグを一口で平らげると、食後の

煙草も吸わずにさっさと店を出た。

 橋田から奪った名刺には住所まで印刷されているので、事務所を探すには苦労しない。北区芝田9−

21−3森田ビルとなっている。歩いて行けない距離ではないが、神崎はタクシーを拾った。

「新阪急ホテルまでやってくれ」

 そう告げると後部座席に深々と座り一服つけた。青白い煙をゆっくり吐き出すと運転手が何か言いた

げに振り返ったが、神崎の視線をまともに受けてまた正面を向いた。

 新阪急ホテルには五分で着いた。メーターの料金は初乗りのままだが、運転手に千円札を手渡すと、

釣り銭を漁ろうとする運転手に煙草でもと言い残し、自分でドアを空けて車外に出た。

 ビルは直ぐに見つかったが、黒川組ではなく森田組という黒地に金文字の看板がある。黒川組直系森

田組ということなのだろう。山下という男はてっきり黒川組の若頭だと思い込んでいたが、森田組の若

頭ということなら随分と小物を相手にしていることになる。最も、小物と言ったところで武闘派である

ことに違いはないが、それだけタチが悪いとも言える。

 怪しまれるといけないので一応サングラスは外しておく。横目でビルを観察しながら、一度通り過ぎ

る。周りのビルに比べると比較的小じんまりした鉄筋コンクリート四階建てのそのビルは、築後かなり

の年数が経過しているようで、吹き付け塗装された凹凸がある白壁はすっかり排ガスで汚れきっている。

二階のガラス窓には一字ずつ森田商事と大きなシールが貼られ、窓枠から下は幾筋ものヒビ割れが走って

いる。窓の全てにはカーテンが下ろされて中の様子は分からないが、とりあえず電気が点いているのは分

かる。一階と二階の間の壁には三本の常夜灯が取り付けられてビル前を強烈に照らしている。一応は威厳

と警備のためなのだろう。1F正面の大部分はシャッターが降りているが、おそらく中は駐車スペースに

違いない。中は外車五台分ほどのスペースがありそうだ。正面右手には二階に上がる階段があり、一階の

入り口部分には扉も何もない。二階のドアは鋼鉄製で常にロックされているはずだ。ヤクザのビルらしく

階段の天井部には監視カメラが見える。右隅には隣のビルとの間に1m程の隙間があり、どうやら奥に回

れるようだ。今ぬけぬけとチェックするわけにもいかないので、奥に回るのは諦める。屋上には手すりが

見える。屋上にも入り口が一カ所はあるはずだ。

 侵入は十分に可...そんな悪戯心が神崎の頭にふと沸いた。

 時間を少しおいた後、今度は道に迷ったふりをして露骨にチェックしながら前を通り過ぎた。監視カメ

ラが階段に二台あること、右手のビルの隙間の奥には何か障害物があることが新たに知れた。ビル左手の

スペースは鉄柵にチェーンがぐるぐる巻きにされて利用できそうもない。

 しばらく出入りの様子を観察したかったが、見張りに適した喫茶店などもないので神崎はいったん撤退

した。





  つづく