ホテル・リッツプラザ内にあるスポーツクラブを出た神崎は、そのまま同ホテルのショッピング

フロアに向かった。九時を過ぎているのでブティックなど一般の店はすでに閉まっているが七、八

階のレストランフロアは夜中の一時まで営業している。

  他の店には目もくれず、ステーキハウス「ロダン」に入った。

  レジ横に立つ中年のフロアマネージャーがその姿を認めると「いつものお席が空いてございます」

と丁寧に頭を下げた。神崎は言葉を返さずに、目で応える。

 カウンターの右端の席に通されると、素早く辺りを見回した。そこからは店内を一望することが

できると共に、後ろと右側は壁であり、不意に死角から襲われることもない。フランス外人部隊に

籍を置いていた頃の習慣が体に染み付き、人並み以上に流れる戦闘本能の血が無造作にそうさせる

のだ。
 
  他の客たちに比べてその服装はあまりにラフであり店の雰囲気からも完全に浮いていたが、神崎

は気にも留めない。

「お飲み物のご注文はございますか?」

 漂うガーリックの香りに食欲を刺激されながら、ドイツ産黒ビール、シュリヒテ・シュタインヘ

イガー、イギリス産チーズのスチルトン、それにプレーンサラダを大盛りで二人前注文した。メイ

ンディッシュは同時に注文しない、それが神崎のやり方だ。食前酒の時間をゆっくりと愉しみ、メ

インは食いたくなったときに食う。そのためには店で二、三時間費やすこともざらだ。

 三分と経たないうちに、黒ビールとシュリヒテ・シュタインヘイガーが運ばれてきた。

  指先の皮膚が貼り付きそうなほど冷えたグラスに満たされたシュタインヘイガーを一口で飲み干

し喉と胃を強烈に焼くと、そこに黒ビールをゆっくりと流し込む。熱く燃える内臓の内側に冷えた

ビールの流れる感触を存分に楽しんだ。ビルダーの中にはビールを一切口にしない者も多いが、そ

んなせこいカロリー計算など神崎には別次元の話だ。

 普段は致ってクールであるが、この時ばかりは顔の筋肉が緩む。疲労で重たくなった筋群に再び

パワーが充電されるるのがはっきりと自覚できる瞬間だ。

 フロア係に空のジョッキを軽く上げてビールを追加すると、持ち込んだ経済新聞を広げた。

 神崎が四杯の黒ビールと共にイギリス産チーズ、プレーンサラダの大盛り二杯を平らげたのはそ

れから小一時間後のことだ。

 大手家電メーカーであるソーヨーの記事はなかった。

 新聞を畳むと、係がすっ飛んできた。ここにおいて神崎は一番と言っていい程の上客なので、この

超高級ステーキ店のフロア係は彼に失礼がないようにと、その一挙一動に絶えず注目しているのだ。

週二日のトレーニング後、大量のタンパク質を摂取するために神崎は上質の魚介類と神戸牛を出すロ

ダンに好んで立ち寄り、値段を一切気にせず胃袋の欲するままに注文しまくるのだ。最も、食事代は

全て女の負担ではあるが。

「あわび三個と伊勢えび二匹、それにTボーンステーキ800gをレアでたのむ」

 一人で食べるには多過ぎる量だが、神崎にとっては毎度のことなのでフロア係は別段驚く様子もない。

「失礼致します」

 コック係が神崎のカウンターの向こう側に立ち一礼すると、目の前の鉄板でアワビと伊勢えびを焼き

にかかった。肉を同時に焼かないのは神崎のスタイルを熟知しているからだ。更にフランス、コート・

ド・ニュイ地区のワインであるラ・ターシュ89年物を注文すると、神崎はキツネ色に焼き上がってい

くアワビと伊勢えびを眺めながら、明日の夜に会うことになっている高田麗香のことを考えた。

  会うのは明日で二度目だ。

 彼女と知り合いになったのは一月程前のことだった。堂島にあるジャズレストラン「パラッソ」にお

気に入りのシンガーのステージを観に行った時、相席になったのだ。神崎は相席が嫌で、いつも高めの

チップを渡してはテーブルを独占したが、その日、全てのテーブルがふさがった後で彼女が予約なしで

やってきたのだ。パラッソは下衆に立ち観などさせず、満席になると客をやんわり追い返すのが常だが、

その美貌に似合わず「そうですか、それでは仕方ありませんね」と低姿勢で返ろうとする彼女に同情し

た支配人が神崎に相席を申し出たのである。彼女のルックスと雰囲気を考えれば横に並ぶのに相応しい

のはやはり神崎のような男であり、支配人の判断は正しいといえた。しかしながら、それは一匹の野兎

をみすみす虎の前に引き出すような行為であるということまでは気付かなかったようだ。
 
  支配人から女性を紹介されると、神崎は快く相席を承知した。
  
  丁寧に上半身を四十五度折り曲げて礼を言う彼女を見て、「これはステージ以上に面白いことになる

かもしれない」と、内心ほくそ笑みながらも、そんなことはおくびにも出さない。麗人は牙を剥いた野

性の虎の前に無防備に置かれた。

 神崎は何も喋らない。食前のシェリー酒を舌の上で転がしては、時折彼女の瞳に視線を送るだけだ。
 
  女は何も話し掛けてこない神崎の発する重たい空気に耐えかねて、ただ黙って俯いた。しなやかで薄

茶色に輝くストレートの髪がその顔を半分隠す。
  
  彼女の身体からほのかに香る匂いはマキシムドパリであることを、神崎は見抜いた。普通のOLや学

生でないことは、この一点だけでも明らかだ。優雅さの中にも、どこか娼婦めいた妖しい香りがして、

まだあどけなさの残る女から青臭さを見事に消している。

「あの、私やっぱりご迷惑だったでしょうか?」

 女は耐えかねた表情でそう言った。

「違うよ、勘違いしないでくれ。ただ君の上品さに見惚れていただけだ」

「えっ...」

 女は頬を紅に染めて再び俯いてしまった。

  うぶなのか演技なのかは、まだ計りかねた。なにせマキシムドパリだ。

「どうしたの?俺、何か悪いこと言った?」

 そんなことは微塵も思っていなかったが、主導権を握るために追い討ちをかけたのだ。天才的ともい

える女の扱い方を、神崎は先天的に持って生まれている。その気になれば、アイドルからファーストレ

ディーまで一月あれば落とす自信が神崎にはあった。やさ男ならいくらでもいる。しかし、実弾の飛び

交う戦場で経験した数々の修羅場が甘ったるい台詞やテクニック、さらには仕種や表情にもある種の危

険さと憂いを含ませていた。女たちはそれを敏感に感じ取り、そして溺れるのだ。

「いえ、ごめんなさい。そうじゃなくて...」

その言葉を聞いてこの女が自分と対極の性質、つまりマゾの血が流れていると直感した。女なら黙って

いても掃いて棄てる程寄ってくるが、神崎にとってマゾというのは特別な存在だ。これから実行しよう

としている計画のためにも、この女性を取り込んでおきたい。この女を自由に使いこなせれば、多くの

男性を陥れることができるだろう。そんな魂胆は露にも出さずにシェリー酒をクールな表情でもう一口

一口舐めた。

「俺、神崎と言います。神崎竜介です」

 言うと同時に、仕事用の名刺を彼女の前に置いた。

  彼女もブランド物のポーチを開き、神崎に応えて名刺を差し出した。

 名前は高田麗香。横にはピアニストの肩書がある。住所の横に電話番号とファックス番号も刷られて

いるが、彼女をマネジメントしている事務所のことかもしれない。

「これって君の部屋の住所と番号?」

 そう問いたいのは山々であるが、女に関して百戦錬磨の神崎はそんなミスは決して犯さない。会って

から十分と経っていないが、この女は事を急げば仕損じるタイプであることを既に見切っていた。

「ピアニスト、そりゃ凄いや!!」

 おどけた笑顔とオーバーアクションで答えると、先ほどまでのクールさとは一変して神崎の表情に人

間臭さが宿った。もちろんそれは皮膚の上っ面だけに過ぎないが。



  食事が終わりステージが始まる頃、女の表情からはこわばった張りが完全に消え失せ、アルコールも

手伝ってか、時折その横顔に熱っぽい視線を送るまでになった。

  薄暗い店内のテーブルに据えられたキャンドルのオレンジ色の灯が、鋼鉄の意志を象徴するかのよう

な神崎の鋭利な鼻筋と引き締まった顎のラインをより一層際立たせた。少し視線を落とせば、圧倒的な

質量の筋群が白のシルクシャツの下に潜んでいるのは誰の目にも明らかである。その姿は一人の女性を

メスに変貌させるに十分なものだ。

  三曲目が始まる頃、女にとってステージの歌は既に男のたくましいシルエットを楽しむためのBGM

にしか過ぎなかった。

  気付かない振りはしているものの、女の視線がねっとりまとわりついていることは十分に承知してい

た。しかし、神崎には熱い視線に心乱さずにステージを楽しむ余裕があった。この女の美貌を考えれば、

普通の男ならこうは冷静にいかないだろう。

  曲が終わると神崎はステージに拍手を送りながら女を見つめた。

  女も拍手しながら神崎に視線を送る。

  神崎はそのまま逸らさない。

  一秒、二秒、三秒....

  女は、熱くて、それでいて甘い視線に絶えられず、肩をすぼめてはうつむいてしまった。

  ステージが引け、店内の照明が少し明るくなると支配人が特別にコーヒー二人前を運んで来た。

「神崎様、ありがとうございました。それから、これはお返ししておきます」

 そう言っては封筒を差し出した。チップだ。

「それなら煙草でも...」

  出されたコーヒーは無視して、付いて来いと言わんばかりの鋭い一瞥を女にくれると、さっそうと

席を立った。

  その広い背中に支配人が頭を下げた。

「今夜は素敵なステージをありがとうございました」女も慌てて後に続いた。

  神崎はサイフから万札を三枚抜いてレジカウンターに放り投げると店を出た。

「あの、これ私の分です...」店の前で女が神崎に追いつくと一万円札を差し出す。

「いいよ」

「でも、そんな。今日お会いしたばかりなのに」

「だったら今度は君が出せばそれでいいことだろ」低音で有無を言わせない威圧的な響きだ。

  この女には甘く囁くよりもこの方が効果的であると判断したのだ。そして、それは見事に当

たっていた。

「は、はい。そうですね」無理矢理そう言わされながらも、女は甘く痺れるものを感じながら、

口説かれたことにも気付かないままに少し後ろを少女のように付いて歩いた。

  中之島を過ぎた辺りから、街の活気が伝わってくる。

  二人は無言のまま阪急梅田方面に向かった。

  女は店を出たらタクシーで帰るつもりでいたが、もうこの男にはそんなことは言えなかった。

もし言えばどうなるだろうか?この男なら平気で張り倒すかもしれないし、あるいは、じゃあ

サヨナラと冷たく言い放ちそのまま永遠に姿を消しそうな気もする。女は、そのどちらをも恐

れた。

「私、これからどこに連れて行かれるのかしら?もし迫られたら...多分断れないだろう。

それとも、どこかでそれを望んでいるのかしら?」

  女があれこれ思案していると、吸いかけのセブンスターを指先で弾いて神崎が急に立ち止ま

った。

  なんでもないことだが、女の心臓は一瞬止まった。恐る恐る神崎を見上げると、厳しい目を

している。ところが、その表情が緩んだかと思うと、口から出た台詞は余りに予想外なものだ

った。

「ちょっとラーメン屋に寄ってかない?美味しい店知ってるんだ」

  笑うと案外あどけなさが残るその表情を見たとき、女は、知り合ったばかりのこの男に惚れ

てしまったことをはっきり自覚した。

  神崎はその夜、結局、その体に指一本触れることなく女を開放した。

  別れ際、立ち去ったその背中に軽く一礼する女の挙動を知ってか知らずか、神崎は左手を上げ

ると、そのまま夜の闇に消えて行った。



  焼き上がったアワビと伊勢えびが差し出された。
  
  ラ・ターシュで喉を湿らせると、神崎はそれらを惜しげもなく次々口に放り込んだ。ミディアムレアに

焼かれたアワビを強靭な歯でかみ砕き、伊勢えびは二口で食べた。

  二万円程の品が三分と経たずに胃に消えた。

  調理係が慌ててTボーン・ステーキを焼きにかかる。肉はレアでしか食べないので、食べるまでにそう

時間は掛からなかった。

  最後はいつものようにガーリックライスで締める。

  食後のコーヒーと共に一服つけて腹を落ち着かせると、ポケットに片手を突っ込んだままレジカウンター

を素通りして店外に出た。伝票には48、000円の請求額が記されていたが、そんなことは神崎の知った

ことではない。全ての代金はツケとして自動的に処理され、月末締めで高瀬恵美に請求されるのだ。


  夜中の一時を過ぎると、さすがに梅田の街も閑散としている。

  中津に借りているマンションまではタクシーを拾ってもよかったが、初秋の夜風が肌に心地良かったので、

歩いて帰ることにした。

  ヘップ・ナビオ前の道路に差し掛かると、ウーハーを気違いみたいにドスドス効かせた改造車の横でたむ

ろしている四人の男たちが、何やら神崎に攻撃的な視線を送ってきた。女にありつけずに暇を持て余してい

るのだろう。

  神崎は無視して通り過ぎようとした。

  男の一人がヒュッと鋭く口笛を吹く。

  賢い男ならその攻撃的な雰囲気で全てを察するべきであるが、彼らはまだ若いのだ。

  神崎は足を止めると男たちに向き直った。その表情は穏やかだ。しかし、リーダー格らしい男を見定める

と、みるみるその瞳に殺気が宿る。

  睨み返したものの、男は神崎の視線を五秒と受けることができず、去勢された雄鳥のように大人しくなった。

  神崎の瞳から殺気が消えると、片頬だけのねじくれた笑みを残して再び歩きだす。


  借りているマンションは地下鉄中津駅の四番出口から歩いて三分の場所にある。ゆったりとした間取りの

2LDKで家賃は17万だ。支払いは自分の口座から落としている。

  郵便物をチェックしてエントランスでオートロックを解除すると、エレベーターは利用せずに三段ずつ飛

ばしながら階段で14階まで一気に駆け上がった。脚の痛みもなければ、息も乱れない。30kgの武器弾

薬などを装備してジャングルを駆けるのに比べれば、神崎にとっては公園の散歩以下だ。

  14階の通路に出ると、反射的に忍び足になる。

  ドアの前に立つと、上の隙間に目立たなく挿んであったチューインガムの銀紙をチェックする。ちゃんと

挟まれているし、位置も寸分違わない。

  左のポケットからファイティング用ナイフであるコマンダーを抜き出すと、ブレードが自然に飛び出し、

戦闘態勢に入った。

  キーで静かにロックを外す。

  中に入るとすぐ左に灯かりのスイッチがあり、視線は前に向けたままオンにする。

  靴はそのままに玄関を上がる。

  少し止まって五感を研ぎ澄ませた。一瞬、昔経験した戦場の光景が思い浮かんだ。人の気配は感じられなかった。
  
  全ての空間をチェックし終わると、そこで始めて力を抜いた。念の為、各スペースをもう一度チェックし直す。

どうやら中東からの暗殺者は今夜も来なかったようだ。
 
  神崎とて、テロ組織「砂漠の狐」の新リーダーであるエルド・ハッシシがこの住所を知っているとは思

えないが、彼らの執念深いやり方は身に染みて知っているし、この手の不注意はたった一度でジ・エンド

である。構成員の三分の一以上をフランス外人部隊在籍中の神崎に抹殺された彼らが、あのまま黙ってい

るとも思えない。現に半年前、神崎と同じく工兵連隊内に存在する特殊部隊DINOPSの一員であり、

あの日「酸の雨」作戦に参加して華々しい戦績を残したアメリカ人のジョージ・ホープスミスが、白昼堂々

ホットドック店のトイレで惨殺されている。切り刻まれた死体の上にはサソリの死骸があったそうだ。間違

いなく彼らの仕業だ。順番からすれば、次は神崎とも言えた。

  

つづく